神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
さてしもやむべきならずとて、陸奥の御子又東へむかはせ給べき定あり。左少将顕信朝臣中将に転じ、従三位叙し、陸奥の介鎮守将軍を兼てつかはさる。東国の官軍こと〴〵く彼節度にしたがふべき由を仰らる。親王は儲君にたゝせ給べきむね申きかせ給、「道の程もかたじけなかるべし。国にてはあらはさせ給へ。」となん申されし。異母の御兄もあまたまし〳〵き。同母の御兄も前東宮、恒良の親王・成良親王まし〳〵しに、かくさだまり給ぬるも天命なればかたじけなし。七月の末つかた、伊勢にこえさせ給て、神宮にことのよしを啓て御船をよそひし、九月のはじめ、ともづなをとかれしに、十日ごろのことにや、上総の地ちかくより空のけしきおどろおどろしく、海上あらくなりしかば、又伊豆の崎と云ふ方にたゞよはれ侍しに、いとゞ浪風おびたゞしくなりて、あまたの船ゆきかたしらずはべりけるに、御子の御船はさはりなく伊勢の海につかせ給。顕信朝臣はもとより御船にさぶらひけり。
書き下し
さてしもやむべきならずとて、陸奥の御子又東へむかはせ給べき定あり。左少将顕信朝臣中将に転じ、従三位叙し、陸奥の介鎮守将軍を兼てつかはさる。東国の官軍ことごとく彼節度にしたがふべき由を仰らる。親王は儲君にたゝせ給べきむね申きかせ給、「道の程もかたじけなかるべし。国にてはあらはさせ給へ。」となん申されし。異母の御兄もあまたましましき。同母の御兄も前東宮、恒良の親王・成良親王ましまししに、かくさだまり給ぬるも天命なればかたじけなし。七月の末つかた、伊勢にこえさせ給て、神宮にことのよしを啓て御船をよそひし、九月のはじめ、ともづなをとかれしに、十日ごろのことにや、上総の地ちかくより空のけしきおどろおどろしく、海上あらくなりしかば、又伊豆の崎と云ふ方にたゞよはれ侍しに、いとゞ浪風おびたゞしくなりて、あまたの船ゆきかたしらずはべりけるに、御子の御船はさはりなく伊勢の海につかせ給。顕信朝臣はもとより御船にさぶらひけり。
現代語訳
それでもやめるべきではないとして、陸奥の御子(義良親王)がまた東国へ向かわれるべき定めがあった。左少将顕信朝臣は中将に転じ、従三位に叙され、陸奥介・鎮守将軍を兼ねて遣わされた。東国の官軍はことごとくその指揮に従うべきことが仰せられた。親王には皇太子にお立ちになるべき旨を申し聞かせられ、「道中も恐れ多いことであろう。国に着いてから公にされよ」と申された。異母の兄も大勢おられた。同母の兄にも前東宮の恒良親王や成良親王がおられたのに、このように定まられたのも天命であるから、恐れ多いことである。七月の末頃、伊勢にお越しになって、神宮に事の由を申し上げて御船を整え、九月の初めに艫綱を解かれたが、十日頃のことであったか、上総の地の近くから空の様子が恐ろしくなり、海上が荒くなったので、また伊豆の崎という方に漂われた。ますます波風が激しくなって、多くの船が行方知れずになったのに、御子の御船は障りなく伊勢の海にお着きになった。顕信朝臣はもとより御船にお仕えしていた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇勧賞によりて同母の御兄四品成良のみこをこえ給。顕家卿はわざと賞をば申うけざりけるとぞ。義貞朝臣は筑紫へくだりしが、播磨国に朝敵の党類ありとて、まづこれを対治すべしとて、日をおくりし程に五月にもなりぬ。高氏等西国の凶徒をあひかたらひてかさねてせめのぼる。官軍利なくして都に帰参せしほどに、同二十七日に又山門に臨幸し給。八月にいたるまで度々合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。仍て都には元弘偽主の御弟に、三の御子豊仁と申けるを位につけ奉る。十月十日の比にや、主上都に出させ給、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓あり。左衛門督実世の卿以下の人々、左中将義貞朝臣をはじめてさるべき兵もあまたつかうまつりけり。主上は尊号の儀にてましましき。御心をやすめ奉らんためにや、成良親王を東宮にすゑたてまつる。同十二月にしのびて都を出ましまして、河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野にいらせ給ぬ。行宮をつくりてわたらせ給。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇同風のまぎれに、東をさして常陸国なる内の海につきたる船はべりき。方々にたゞよひし中に、この二のふねおなじ風にて東西にふきわけゝる、末の世にはめづらかなるためしにぞ侍べき。儲の君にさだまらせ給て、例なきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神のとゞめ申させ給けるなるべし。後に芳野へいらせましまして、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。又常陸国はもとより心ざす方なれば、御志ある輩あひはからひて義兵こはくなりぬ。奥州・野州の守も次の年の春かさねて下向して、おのおの国につきはべりにき。さても旧都には、戊寅の年の冬改元して暦応とぞ云ける。芳野の宮にはもとの延元の号なれば、国々もおもひおもひの号なり。もろこしには、かゝるためしおほけれど、此国には例なし。されど四とせにもなりぬるにや。大日本嶋根はもとよりの皇都也。内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。さても八月の十日あまり六日にや、秋霧にをかされさせ給てかくれましましぬとぞきこえし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇よりて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞましましける。内裏もすなはち焼ぬ。累代の重宝もおほくうせにけり。昔よりためしなきほどの乱逆なり。かゝりしあひだに、陸奥守鎮守府の将軍顕家卿この乱をきゝて、親王をさきに立奉りて、陸奥・出羽の軍兵を率してせめのぼる。同十三日近江国につきてことの由を奏聞す。十四日に江をわたりて坂本にまゐりしかば、官軍大に力をえて、山門の衆徒までも万歳をよばひき。同十六日より合戦はじまりて三十日つひに朝敵を追落す。やがて其夜還幸し給。高氏等猶摂津国にありときこえしかば、かさねて諸将をつかはす。二月十三日又これをたひらげつ。朝敵は船にのりて西国へなむおちにけり。諸将および官軍はかつがつかへりまゐりしを、東国の事おぼつかなしとて、親王も又かへらせ給べし、顕家卿も任所にかへるべきよしおほせらる。義貞は筑紫へつかはさる。かくて親王元服し給。直に三品に叙し、陸奥太守に任じまします。彼国の太守は始たることなれど、たよりありとてぞ任じ給。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇もとのごとく存位の儀にてぞましましける。内侍所もうつらせ給、神璽も御身にしたがへ給けり。まことに奇特のことにこそ侍しか。芳野のみゆきにさきだちて、義兵をおこす輩もはべりき。臨幸の後には国々にも御心ざしあるたぐひあまたきこえしかど、つぎの年もくれぬ。又の年戊寅の春二月、鎮守大将軍顕家卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の国々ことごとくたひらぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和に入、奈良の京になんつきにける。それより所々の合戦あまたゝび互に勝負侍りしに、同五月和泉国にてのたゝかひに、時やいたらざりけん、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。苔の下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。官軍猶こゝろをはげまして、男山に陣をとりて、しばらく合戦ありしかど、朝敵忍て社壇をやきはらひしより、ことならずして引しりぞく。北国にありし義貞もたびたびめされしかど、のぼりあへず。させることなくてむなしくさへなりぬときこえしかば、云ふばかりなし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申の儀あり。御前にめし勅語ありて御衣御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。同十二月左馬頭直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野大守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給抑彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務・守護およびあまたの郡庄を給る。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。
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『神皇正統記』巻六 第九十六代 後村上天皇第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良、後醍醐の天皇第七御子。御母准三宮、藤原の廉子。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御ことゝぞかねてよりきこえさせ給し。元弘癸酉の年、あづまの陸奥・出羽のかためにておもむかせ給。甲戌の夏、立親王、丙子の春、都にのぼらせましまして、内裏にて御元服。加冠左のおとゞなり。すなはち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給。おなじき戊寅の年春、又のぼらせ給て、芳野宮にましまししが、秋七月伊勢にこえさせ給。かさねて東征ありしかど、猶伊勢にかへりまし、己卯の年三月又芳野へいらせ給。秋八月中の五日ゆづりをうけて、天日嗣をつたへおまします。
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