神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
昔は人の心正くて自ら将門にみもこり、きゝもこり侍りけん。今は人々の心かくのみなりにたれば、此世はよくおとろへぬるにや。漢高祖の天下をとりしは蕭何・張良・韓信が力なり。これを三傑と云ふ。万人にすぐれたるを傑と云とぞ。中にも張良は高祖の師として、「はかりことを帷帳の中にめぐらして、勝ことを千里の外に決するはこの人なり。」との給しかど、張良はおごることなくして、留といひてすこしきなる所をのぞみて封ぜられにけり。あらゆる功臣おほくほろびしかど、張良は身をまたくしたりき。ちかき代のことぞかし、頼朝の時までも、文治の比にや、奥の泰衡を追討せしに、みづからむかふことありしに、平重忠が先陣にて其功すぐれたりければ、五十四郡の中に、いづくをものぞむべかりけるに、長岡の郡とてきはめたる小所をのぞみたまはりけるとぞ。これは人々にひろく賞をもおこなはしめんがためにや。かしこかりけるをのこにこそ。又直実と云ける者に一所をあたへたまふ下文に、「日本第一の甲の者なり。」と書て給てけり。
書き下し
昔は人の心正くて自ら将門にみもこり、きゝもこり侍りけん。今は人々の心かくのみなりにたれば、此世はよくおとろへぬるにや。漢高祖の天下をとりしは蕭何・張良・韓信が力なり。これを三傑と云ふ。万人にすぐれたるを傑と云とぞ。中にも張良は高祖の師として、「はかりことを帷帳の中にめぐらして、勝ことを千里の外に決するはこの人なり。」との給しかど、張良はおごることなくして、留といひてすこしきなる所をのぞみて封ぜられにけり。あらゆる功臣おほくほろびしかど、張良は身をまたくしたりき。ちかき代のことぞかし、頼朝の時までも、文治の比にや、奥の泰衡を追討せしに、みづからむかふことありしに、平重忠が先陣にて其功すぐれたりければ、五十四郡の中に、いづくをものぞむべかりけるに、長岡の郡とてきはめたる小所をのぞみたまはりけるとぞ。これは人々にひろく賞をもおこなはしめんがためにや。かしこかりけるをのこにこそ。又直実と云ける者に一所をあたへたまふ下文に、「日本第一の甲の者なり。」と書て給てけり。
現代語訳
昔は人の心が正しくて、自然と将門の末路を見ても聞いても懲りたのであろう。今は人々の心がこのようにばかりなってしまったので、この世はずいぶん衰えたのであろうか。漢の高祖が天下を取ったのは、蕭何・張良・韓信の力である。これを三傑という。万人に優れた者を傑というそうだ。中でも張良は高祖の師として、(高祖が)「はかりごとを帷帳の中にめぐらして、勝つことを千里の外に決するのはこの人である」とおっしゃったが、張良は驕ることなく、留という小さな所を望んで封じられた。あらゆる功臣が多く滅びたが、張良は身を全うした。近い代のことであるが、頼朝の時にも、文治の頃であったか、奥州の泰衡を追討したとき、(頼朝が)自ら向かったことがあった。平重忠(畠山重忠)が先陣でその功が優れていたので、(奥州)五十四郡の中でどこでも望むことができたのに、長岡の郡というきわめて小さな所を望んで賜ったという。これは人々に広く賞を行き渡らせるためであったろうか。賢い男であったことだ。また直実(熊谷直実)という者に一所を与えられた下文に、「日本第一の剛の者である」と書いて与えた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇其道にはあらで、一旦の勲功など云ばかりに、武家代々の陪臣をあげて高官を授られむことは、朝議のみだりなるのみならず、身のためもよくつゝしむべきことゝぞおぼえ侍る。もろこしにも、漢高祖はすゞろに功臣を大に封じ、公相の位をも授しかば、はたして奢ぬ。奢ればほろぼす。よりて後には功臣のこりなくなりにけり。後漢の光武はこの事にこりて、功臣に封爵をあたへけるも、其首たりし鄧禹すら封ぜらるゝ所四県にすぎず。官を任ずるには文吏をもとめえらびて、功臣をさしおく。是によりて二十八将の家ひさしく伝て、昔の功もむなしからず。朝には名士おほくもちゐられて、曠官のそしりなかりき。彼二十八将の中にも鄧禹と賈復とはそのえらびにあづかりて官にありき。漢朝の昔だに文武の才をそなふることいとありがたく侍りけるにこそ。次に功田と云ことは、昔は功のしなにしたがひて大・上・中・下の四の功を立て田をあかち給き。其数みなさだまれり。大功は世々にたえず。
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『長短経』大体漢の高帝曰く「夫れ籌策を幃幄の中に運らし、勝を千里の外に決するは、吾れ子房に如かず。国家を鎮め、百姓を撫し、餉餽を給して糧道を絶たざるは、吾れ蕭何に如かず。百万の軍を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾れ韓信に如かず。三人の者は皆人傑なり。吾れ能く之を用う。此れ吾が天下を有つ所以なり」と。〔人物志に曰く「夫れ一官の任は、一味を以て五味に協う。一国の政は、無味を以て五味を和す。故に臣は自ら任ずるを以て能と為し、君は能く人を用うるを以て能と為す。臣は能く言うを以て能と為し、君は能く聴くを以て能と為す。臣は能く行うを以て能と為し、君は能く賞罰するを以て能と為す。同じからざる所以の故に、能く衆能に君たるなり」と。〕
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史記 高祖本紀高祖曰く、「公其の一を知りて、未だ其の二を知らず。夫れ籌策を帷帳の中に運らし、勝を千里の外に決するは、吾子房に如かず。国家を鎮め百姓を撫し、餽馕を給し糧道を絶たざるは、吾蕭何に如かず。百萬の軍を連ね、戦へば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾韓信に如かず。此の三者は、皆人傑なり、吾能く之を用ゐる、此れ吾が天下を取る所以なり。項羽は一范増有れども而も用ゐる能はず、此れ其の我が擒と為る所以なり」と。
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『長短経』君徳夏は忠を尚ぶ。忠の弊は野朴なり。故に殷は之を承くるに敬を以てす。敬の弊は鬼なり。故に周は之を承くるに文を以てす。文の弊は薄なり。薄を救うは忠に若くは莫し。三王の道は、周りて復た始まる。周秦の間は、文弊と謂う可し。秦は改めずして、反って刑を酷にす。漢は其の弊を承けて天統を得たり。孔融曰く「周の武は后稷より以来、其の身に至るまで、相い承くること十五世を積む。但だ魚鳥の瑞有るのみ。高祖の如きに至りては、一身徳を修めて、瑞に四五有り。白蛇分かれ、神母哭き、西のかた関に入り、五星聚まる。又た武王は紂を伐ちて、斬りて之を梟す。高祖は秦に入りて、子嬰を赦して之を遣る。是れ其の寛裕、又た高祖に如かず」と。虞南曰く「帝者は師と処り、王者は友と処り、覇者は臣と処る。漢祖の臣は三傑是なり。光武の佐は二十八将是なり。豈に鄧禹・呉漢を以て張良・韓信に匹す可けんや。然れども漢祖の功臣は、皆な強盛にして誅滅せらる。光武の佐命は、悉く優秩を用いて安全なり。君臣の際、良に称す可きなり。長を絶ちて短を補えば、其の次に抑うるなり」と。此に由りて之を言えば、夫れ漢高は秦・項を克平し、漢業を開創す。衣冠礼楽、之を後代に垂る。未だ王道に階らずと雖も、霸徳の盛んなるなり。〕
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇闕所をもておこなはるゝにたらざれば、国郡につきたりし地、もしは諸家相伝の領までもきほひ申けりとぞ。をさまらんとしていよいよみだれ、やすからんとしてますますあやふくなりにける、末世のいたりこそまことにかなしく侍れ。凡王土にはらまれて、忠をいたし命をすつるは人臣の道なり。必これを身の高名とおもふべきにあらず。しかれども後の人をはげまし、其あとをあはれみて賞せらるゝは、君の御政なり。下としてきほひあらそひ申べきにあらぬにや。ましてさせる功なくして過分の望をいたすこと、みづからあやぶむるはしなれど、前車の轍をみることはまことに有がたき習なりけんかし。中古までも人のさのみ豪強なるをばいましめられき。豪強になりぬればかならずおごる心あり。はたして身をほろぼし、家をうしなふためしあれば、いましめらるゝも理なり。鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属することをとゞむべしと云ふ制符たびたびありき。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇一とせ彼下文を持て奏聞する人の有けるに、褒美の詞のはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことゝ口々にほめあへりける。いかに心えてほめけんといとをかし。是までの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。ありし世の東国の風儀もかはりはてぬ。公家のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍る輩もありときこえしかど、中一とせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞり集て都の中はえばえしくこそ侍りけれ。建武乙亥の秋の比、滅にし高時が余類謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河国までのがれにき。兵部卿護良親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑せられける中に権大納言公宗卿召おかれしも、このまぎれに誅せらる。
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