神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
一とせ彼下文を持て奏聞する人の有けるに、褒美の詞のはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことゝ口〳〵にほめあへりける。いかに心えてほめけんといとをかし。是までの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。ありし世の東国の風儀もかはりはてぬ。公家のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍る輩もありときこえしかど、中一とせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞり集て都の中はえ〴〵しくこそ侍りけれ。建武乙亥の秋の比、滅にし高時が余類謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河国までのがれにき。兵部卿護良親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑せられける中に権大納言公宗卿召おかれしも、このまぎれに誅せらる。
書き下し
一とせ彼下文を持て奏聞する人の有けるに、褒美の詞のはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことゝ口々にほめあへりける。いかに心えてほめけんといとをかし。是までの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。ありし世の東国の風儀もかはりはてぬ。公家のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍る輩もありときこえしかど、中一とせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞり集て都の中はえばえしくこそ侍りけれ。建武乙亥の秋の比、滅にし高時が余類謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河国までのがれにき。兵部卿護良親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑せられける中に権大納言公宗卿召おかれしも、このまぎれに誅せらる。
現代語訳
ある年、その下文を持って奏聞した人があったが、褒め言葉のはなはだしさに比べて与えた所の少なさを見て、まことに名を重んじて利を軽んじた、立派なことだと、人々は口々に褒め合った。どう心得て褒めたのかと思うと、まことにおかしい。これほどの心がけこそないにしても、事にふれて君を貶め申し、自分を高くする者ばかりが多くなった。かつての東国の気風も変わり果てた。公家の古い姿もない。いったいどうなってしまった世かと嘆く者もいると聞こえたが、間の一年ほどは、まことに一統のしるしと思われて、天下の人が集まって、都の中は華やかであった。建武乙亥(一三三五年)の秋の頃、滅んだ高時の残党が謀反を起こして鎌倉に入った。直義は成良親王をお連れ申して三河国まで逃れた。兵部卿護良親王は事情があって鎌倉におられたが、お連れ申すにも及ばず、殺し申してしまった。乱れの中ではあったが、かねての恨みを果たしたのであろうか。都でも、かねて陰謀の噂があって嫌疑をかけられていた中で、召し置かれていた権大納言公宗卿(西園寺公宗)も、この混乱にまぎれて誅された。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇承久より関東の方人にて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅ぬれば、運のしからしむることゝはおぼゆれど、弘仁に死罪をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申はべりけれ。戚里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令もあるに、うけ給おこなふ輩のあやまりなりとぞきこえし。高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。追討のために、中務卿尊良親王を上将軍として、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくの兵をくだされしに、十二月に官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子の春正月十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申の儀あり。御前にめし勅語ありて御衣御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。同十二月左馬頭直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野大守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給抑彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務・守護およびあまたの郡庄を給る。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇高氏も都へさしのぼせられけるに、疑をのがれんとにや、告文をかきおきてぞ進発しける。されど冥見をもかへりみず、心がはりして御方にまゐる。官軍力をえしまゝに、五月八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝おなじく御ゆきあり。近江国馬場と云所にて、御方に心ざしある輩うちいでにければ、武士はたゝかふまでもなく自滅しぬ。両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり申き。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になん。東にも上野国に源義貞と云者あり。高氏が一族也。世の乱におもひをおこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、高時等運命きはまりにければ、国々の兵つきしたがふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月の二十二日にや、高時をはじめとして多の一族みな自滅してければ、鎌倉又たひらぎぬ。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇勧賞によりて同母の御兄四品成良のみこをこえ給。顕家卿はわざと賞をば申うけざりけるとぞ。義貞朝臣は筑紫へくだりしが、播磨国に朝敵の党類ありとて、まづこれを対治すべしとて、日をおくりし程に五月にもなりぬ。高氏等西国の凶徒をあひかたらひてかさねてせめのぼる。官軍利なくして都に帰参せしほどに、同二十七日に又山門に臨幸し給。八月にいたるまで度々合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。仍て都には元弘偽主の御弟に、三の御子豊仁と申けるを位につけ奉る。十月十日の比にや、主上都に出させ給、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓あり。左衛門督実世の卿以下の人々、左中将義貞朝臣をはじめてさるべき兵もあまたつかうまつりけり。主上は尊号の儀にてましましき。御心をやすめ奉らんためにや、成良親王を東宮にすゑたてまつる。同十二月にしのびて都を出ましまして、河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野にいらせ給ぬ。行宮をつくりてわたらせ給。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇世の中みだれ立にし。次の年癸酉の春、忍て御船にたてまつりて、隠岐をいでゝ伯耆につかせ給。其国に源長年と云者あり。御方にまゐりて船上と云山寺にかりの宮をたてゝぞすませたてまつりける。彼あたりの軍兵しばらくはきほひておそひ申けれど、みなゝびき申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつはものよりよりうちいづれば、合戦もたびたびになりぬ。京中さわがしくなりては、上皇も新主も六波羅にうつり給。伯耆よりも軍をさしのぼせらる。ここに畿内・近国にも御志ある輩、八幡山に陣をとる。坂東よりのぼれる兵の中に藤原の親光と云者も彼山にはせくはゝりぬ。つぎつぎ御方にまゐる輩おほくなりにけり。源高氏ときこえしは、昔の義家朝臣が二男、義国と云しが後胤なり。彼義国が孫なりし義氏は平義時朝臣が外孫なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心をゝきければにや、おしすゑたるやうなりしに、これは外孫なれば取立て領ずる所などもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇符契をあはすることもなかりしに、筑紫の国々・陸奥・出羽のおくまでも同月にぞしづまりにける。六七千里のあひだ、一時におこりあひにし、時のいたり運の極ぬるはかゝることにこそと不思議にも侍しもの哉。君はかくともしらせ給はず、摂津国西の宮と云所にてぞきかせましましける。六月四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まゐりあつまりしかば、威儀をとゝのへて本の宮に還幸し給。いつしか賞罰のさだめありしに、両院・新帝をばなだめ申給て、都にすませましましける。されど新帝は偽主の儀にて正位にはもちゐられず。改元して正慶と云しをも本のごとく元弘と号せられ、官位昇進せし輩もみな元弘元年八月よりさきのまゝにてぞありし。
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