神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
其下つかたは或は三世につたへ、孫子につたへ、身にとゞまるもあり。天下を治と云ことは、国郡を専にせずして、そのことゝなく不輸の地をたてらるゝことのなかりしにこそ。国に守あり、郡に領あり、一国のうち皆国命のしたにてをさめしゆゑに法にそむく民なし。かくて国司の行迹をかむがへて、賞罰ありしかば、天下のこと掌をさしておこなひやすかりき。其中に諸院・諸宮に御封あり。親王・大臣も又かくのごとし。其外官田・職田とてあるも、みな官符を給て、其所の正税をうくるばかりにて、国はみな国司の吏務なるべし。但大功の者ぞ今の庄園などとて伝がごとく、国にいろはれずしてつたへける。中古となりて庄園おほくたてられ、不輸の所いできしより乱国とはなれり。上古にはこの法よくかたかりければにや、推古天皇の御時、蘇我大臣「わが封戸をわけて寺によせん。」と奏せしをつひにゆるされず。光仁天皇は永神社・仏寺によせられし地をも「永の字は一代にかぎるべし。」とあり。
書き下し
其下つかたは或は三世につたへ、孫子につたへ、身にとゞまるもあり。天下を治と云ことは、国郡を専にせずして、そのことゝなく不輸の地をたてらるゝことのなかりしにこそ。国に守あり、郡に領あり、一国のうち皆国命のしたにてをさめしゆゑに法にそむく民なし。かくて国司の行迹をかむがへて、賞罰ありしかば、天下のこと掌をさしておこなひやすかりき。其中に諸院・諸宮に御封あり。親王・大臣も又かくのごとし。其外官田・職田とてあるも、みな官符を給て、其所の正税をうくるばかりにて、国はみな国司の吏務なるべし。但大功の者ぞ今の庄園などとて伝がごとく、国にいろはれずしてつたへける。中古となりて庄園おほくたてられ、不輸の所いできしより乱国とはなれり。上古にはこの法よくかたかりければにや、推古天皇の御時、蘇我大臣「わが封戸をわけて寺によせん。」と奏せしをつひにゆるされず。光仁天皇は永神社・仏寺によせられし地をも「永の字は一代にかぎるべし。」とあり。
現代語訳
その下の等級は、あるいは三世に伝え、子や孫に伝え、本人一代でとどまるものもある。天下を治めることがうまくいったのは、国郡を思いのままにせず、理由もなく不輸(租税免除)の地を立てられることがなかったからである。国には守があり、郡には領(郡司)があり、一国のうちはみな国司の命令の下で治めたので、法に背く民はいなかった。こうして国司の行跡を考査して賞罰があったので、天下のことは手のひらを指すように行いやすかった。その中で、諸院・諸宮には封戸があった。親王や大臣もまた同様である。そのほか官田・職田というものも、みな官符を賜って、その土地の正税を受けるだけで、国はすべて国司の治めるところであった。ただ大功の者の田だけは、今の荘園などのように、国司に干渉されずに伝えた。中古になって荘園が多く立てられ、不輸の所ができてから、国は乱れるようになった。上古にはこの法がよく固く守られていたからであろうか、推古天皇の御時、蘇我大臣が「私の封戸を分けて寺に寄進したい」と奏上したのを、ついにお許しにならなかった。光仁天皇は、永代として神社や仏寺に寄進された地についても、「永の字は一代に限るべきである」と定められた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇後三条院の御世こそ此つひえをきかせ給て、記録所をゝかれて国々の庄公の文書をめして、おほく停廃せられしかど、白河・鳥羽の御時より新立の地いよいよおほくなりて、国司のしり所百分が一になりぬ。後ざまには、国司任におもむくことさへなくて、其人にもあらぬ眼代をさして国ををさめしかば、いかでか乱国とならざらん。況や文治のはじめ、国に守護職を補し、庄園・郷保に地頭をおかれしよりこのかたは、さらに古のすがたと云ことなし。政道をおこなはるゝ道、ことごとくたえはてにき。たまたま一統の世にかへりぬれば、この度ぞふるき費をもあらためられぬべかりしかど、それまではあまさへのことなり。今は本所の領と云し所々さへ、みな勲功に混ぜられて、累家もほとほと其名ばかりになりぬるもあり。これみな功にほこれる輩、君をおとし奉るによりて、皇威もいとゞかろくなるかとみえたり。かゝれば其功なしといへども、ふるくより勢ある輩をなつけられんため、或は本領なりとてたまはるもあり、或は近境なりとてのぞむもあり。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇闕所をもておこなはるゝにたらざれば、国郡につきたりし地、もしは諸家相伝の領までもきほひ申けりとぞ。をさまらんとしていよいよみだれ、やすからんとしてますますあやふくなりにける、末世のいたりこそまことにかなしく侍れ。凡王土にはらまれて、忠をいたし命をすつるは人臣の道なり。必これを身の高名とおもふべきにあらず。しかれども後の人をはげまし、其あとをあはれみて賞せらるゝは、君の御政なり。下としてきほひあらそひ申べきにあらぬにや。ましてさせる功なくして過分の望をいたすこと、みづからあやぶむるはしなれど、前車の轍をみることはまことに有がたき習なりけんかし。中古までも人のさのみ豪強なるをばいましめられき。豪強になりぬればかならずおごる心あり。はたして身をほろぼし、家をうしなふためしあれば、いましめらるゝも理なり。鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属することをとゞむべしと云ふ制符たびたびありき。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇およそ政道と云ことは所々にしるしはべれど、正直慈悲を本として決断の力あるべき也。これ天照太神のあきらかなる御をしへなり。決断と云にとりてあまたの道あり。一には其人をえらびて官に任ず。官に其人ある時は君は垂拱してまします。されば本朝にも異朝にもこれを治世の本とす。二には国郡をわたくしにせず、わかつ所かならず其理のまゝにす。三には功あるをば必賞し、罪あるをば必ず罰す。これ善をすゝめ悪をこらす道なり。是に一もたがふを乱政とはいへり。上古には勲功あればとて官位をすゝむことはなかりき。つねの官位のほかに勲位と云しなをゝきて一等より十二等まであり。無位の人々なれど、勲功たかくて一等にあがれば、正三位の下、従三位の上につらなるべしとぞみえたる。又本位ある人のこれを兼たるも有べし。官位といへるは、上三公より下諸司の一分にいたる、これを内官と云、諸国の守より史生・郡司にいたる、これを外官と云ふ。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇天道も神明もいかにともせぬことなれど邪なるものは久しからずしてほろび、乱たる世も正にかへる、古今の理なり。これをよくわきまへしるを稽古と云ふ。昔人をえらびもちゐられし日は先徳行をつくす。徳行おなじければ、才用あるをもちゐる。才用ひとしければ労効あるをとる。又徳義・清慎・公平・恪勤の四善をとるともみえたり。格条には「朝に廝養たれども夕に公卿にいたる。」と云ことの侍るも、徳行才用によりて不次にもちゐらるべき心なり。寛弘よりあなたには、まことに才かしこければ、種姓にかゝはらず、将相にいたる人もあり。寛弘以来は、譜第をさきとして、其中に才もあり徳もありて、職にかなひぬべき人をぞえらばれける。世の末に、みだりがはしかるべきことをいましめらるゝにやありけん、「七け国の受領をへて、合格して公文といふことかんがへぬれば、参議に任ず。」
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『神皇正統記』巻四 政みだれぬれば民の賦斂をあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもとゐ也。我国は王種のかはることはなけれども、政みだれぬれば、暦数ひさしからず。継体もたがふためし、所々にしるし侍りぬ。いはんや、人臣として其職をまぼるべきにおきてをや。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇其道にはあらで、一旦の勲功など云ばかりに、武家代々の陪臣をあげて高官を授られむことは、朝議のみだりなるのみならず、身のためもよくつゝしむべきことゝぞおぼえ侍る。もろこしにも、漢高祖はすゞろに功臣を大に封じ、公相の位をも授しかば、はたして奢ぬ。奢ればほろぼす。よりて後には功臣のこりなくなりにけり。後漢の光武はこの事にこりて、功臣に封爵をあたへけるも、其首たりし鄧禹すら封ぜらるゝ所四県にすぎず。官を任ずるには文吏をもとめえらびて、功臣をさしおく。是によりて二十八将の家ひさしく伝て、昔の功もむなしからず。朝には名士おほくもちゐられて、曠官のそしりなかりき。彼二十八将の中にも鄧禹と賈復とはそのえらびにあづかりて官にありき。漢朝の昔だに文武の才をそなふることいとありがたく侍りけるにこそ。次に功田と云ことは、昔は功のしなにしたがひて大・上・中・下の四の功を立て田をあかち給き。其数みなさだまれり。大功は世々にたえず。
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