神皇正統記 / 巻五 第九十代 後宇多院
寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易の深き道をも愛成と云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右にあたはず。菅氏輔佐したてまつられき。其後も紀納言・善相公等の名儒ありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。此御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申人のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。此君は在位にても政事をしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせまし〳〵き。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給る。元亨のすゑ甲子の六月に五十八歳にてかくれまし〳〵き。
書き下し
寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易の深き道をも愛成と云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右にあたはず。菅氏輔佐したてまつられき。其後も紀納言・善相公等の名儒ありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。此御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申人のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。此君は在位にても政事をしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせましましき。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給る。元亨のすゑ甲子の六月に五十八歳にてかくれましましき。
現代語訳
寛平(宇多天皇)はとりわけ広く学ばれたからであろうか、周易の深い道をも愛成という博士から受けられた。延喜(醍醐天皇)の御ことは言うまでもない。菅原道真が補佐申された。その後も紀納言(紀長谷雄)や善相公(三善清行)らの名儒がいたので、文の道が盛んであったことは上古に及ぶほどであった。この御遺誡について「天子の御学問はそれほどでなくても」と申す人がいるのは、嘆かわしいことである。何事も文の上でよく考え合わせるべきではないか。この君(後宇多院)は在位中も政事をお執りにならず、また院として十余年静かに過ごされたので、学問に明るく、諸道にも通じられたのであろう。御出家の後もねんごろに修行された。上皇が出家なさったことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・後深草・亀山の各院にある。醍醐・一条天皇は御病気が重くなってから出家なさった。このように多く聞こえているけれども、戒律を備え、始めから終わりまで欠けることなく密教をきわめて、大阿闍梨にまでなられたことは、たいそうめったにないことである。この御子孫に天下統一の運が開かれたのは、徳のある方の残した香りだと思われる。元亨の末、甲子の年(1324年)の六月に五十八歳でお隠れになった。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻四 第五十九代 宇多天皇小野と云所にすまれけるより小野流と云ふ。しかれば法皇は両流の法主にまします也。王位をさりて釈門に入ことは其例おほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為の御政なりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名によりて、大納言大将まで登用し給しも此御時也。又譲国の時さまざまをしへ申されし、寛平の御誡とて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜より始る。」とみえたり。唐堯のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御寿も長て朱雀の御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻五 帝王の学問大方この君は中古よりこなたにはありがたき御ことゝぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才きこえさせ給はざりしにや。寛平の御誡には、帝皇の御学問は群書治要などにてたりぬべし。雑文につきて政事をさまたげ給ふなとみえたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をもしらせたまひ、政事も明にましまししかば、先二代はことふりぬ、つぎては寛弘・延久をぞ賢王とも申める。和漢の古事をしらせ給はねば、政道もあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれる理なり。
-
『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし。」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝の御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなるべし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましましゝに、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへもろもろの道をこのみしらせ給こと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言をならはせ給。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正禅助に許可までうけ給けるとぞ。天子潅頂の例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師に潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁潅頂とぞ申める。此度はまことの授職とおぼしめしゝにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内にめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせましましけるにや。
-
『神皇正統記』巻五 第九十代 後宇多院嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立てぞおこなはせ給し。其後、後醍醐の御門位につきましまししかば、又しばらく世をしらせ給て、三とせばかり有てゆづりましましき。
-
『神皇正統記』巻四 第五十九代 宇多天皇第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省、光孝第三の子。御母皇太后班子の女王、仲野親王の女也。元慶の比、孫王にて源氏の姓を給らせまします。そのかみ、つねに鷹狩をこのませ給けるに、ある時賀茂大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。践祚の後、彼社の臨時の祭をはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。仁和三年丁未の秋、光孝御病ありしに、御兄の御子たちをゝきて譲をうけ給。先親王とし、皇太子にたち、即受禅。同年の冬即位。中一とせありて己酉に改元。践祚の初より太政大臣基経又関白せらる。此関白薨て後はしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御志ありきとぞ仰給ける。弘法大師四代の弟子益信僧正を御師にて東寺にして潅頂せさせ給。又智証大師の弟子増命僧正にも比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、仁和寺に伝侍は是なり。
-
『神皇正統記』巻五 第九十代 後宇多院第九十代、第四十八世、後宇多院。諱は世仁、亀山の太子。御母皇后藤原の僖子、左大臣実雄の女也。甲戌の年即位、乙亥改元。丙子の年、もろこしの宋幼帝徳祐二年にあたる。ことし、北狄の種、蒙古おこりて元国と云しが宋の国を滅す。辛巳の年蒙古の軍おほく船をそろへて我国を侵す。筑紫にて大に合戦あり。神明、威をあらはし形を現じてふせがれけり。大風にはかにおこりて数十万艘の賊船みな漂倒破滅しぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約のかはらざることこれにておしはかるべし。この天皇天下を治給こと十三年。おもひの外にのがれましまして十余年ありき。後二条の御門立給しかば、世をしらせ給。遊義門院かくれまして、御歎のあまりにや、出家せさせ給。前大僧正禅助を御師として、宇多・円融の例により、東寺にて潅頂せさせ給。めづらかにたふとき事にはべりき。其日は後醍醐の御門、中務の親王とて王卿の座につかせ御座す。只今の心地ぞしはべる。後二条かくれさせ給しのち、いとゞ世をいとはせたまふ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る