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神皇正統記 / 巻六 第九十一代 伏見院

第九十一代、伏見院。諱は煕仁、後深草第一の子。御母玄輝門院、藤原[の]愔子、左大臣実雄の女也。後嵯峨の御門、継体をば亀山とおぼしめし定ければ、深草の御流いかゞとおぼえしを、亀山、弟順の儀をおぼしめしけるにや、此君を御猶子にして東宮にすゑ給ぬ。そのゝち御心もゆかず、あしざまなる事さへいできて践祚ありき。丁亥の年即位、戊子に改元。東宮にさへ此天皇の御子ゐ給き。天下を治給こと十一年。太子にゆづりて尊号例の如し。院中にて世をしらせ給しが、程なく時うつりにしかど、中六とせばかり有て又世をしり給き。関東の輩も亀山の正流をうけたまへることはしり侍りしかど、近比となりて、世をうたがはしく思ければにや、両皇の御流をかはる〴〵すゑ申さんと相計けりとなん。のちに出家せさせ給。五十歳おまし〳〵き。

書き下し

第九十一代、伏見院。諱は煕仁、後深草第一の子。御母玄輝門院、藤原の愔子、左大臣実雄の女也。後嵯峨の御門、継体をば亀山とおぼしめし定ければ、深草の御流いかゞとおぼえしを、亀山、弟順の儀をおぼしめしけるにや、此君を御猶子にして東宮にすゑ給ぬ。そのゝち御心もゆかず、あしざまなる事さへいできて践祚ありき。丁亥の年即位、戊子に改元。東宮にさへ此天皇の御子ゐ給き。天下を治給こと十一年。太子にゆづりて尊号例の如し。院中にて世をしらせ給しが、程なく時うつりにしかど、中六とせばかり有て又世をしり給き。関東の輩も亀山の正流をうけたまへることはしり侍りしかど、近比となりて、世をうたがはしく思ければにや、両皇の御流をかはるがはるすゑ申さんと相計けりとなん。のちに出家せさせ給。五十歳おましましき。

現代語訳

第九十一代、伏見院。諱は煕仁(ひろひと)、後深草院の第一皇子である。母は玄輝門院、藤原愔子で、左大臣(洞院)実雄の娘である。後嵯峨院は皇位の継承を亀山院の系統とお決めになっていたので、後深草院の御系統はどうなるのかと思われていたが、亀山院は兄弟の順序という筋道をお考えになったのか、この君を猶子として東宮にお立てになった。その後、(亀山院の)お心にもかなわず、好ましくない事さえ起こって、践祚があった。丁亥の年(一二八七年)に即位し、戊子の年に改元した。東宮にまでこの天皇の皇子がお立ちになった。天下を治められること十一年。皇太子に譲位され、太上天皇の尊号を受けられたことは例のとおりである。院として世を治めておられたが、ほどなく時勢が移った。けれども間に六年ほどあって、また世を治められた。関東の者たちも、亀山院の系統が正流を受けておられることは知っていたのだが、近頃になって世の成り行きを疑わしく思ったからであろうか、両皇統の御流を交互に皇位にお据え申そうと相談して取り決めたということである。のちに出家なさった。五十歳であられた。

解説

伏見院の記事で、のちの南北朝の分裂の根を親房がどう見ているかがよく出ている。親房は後嵯峨院が継承を亀山院の系統と定めたと書き、亀山院の系統を「正流」と呼ぶ。伏見院の即位は、亀山院が兄の系統に配慮して猶子とし東宮に立てたことから始まったが、そのあと「御心もゆかず、あしざまなる事さへいできて」践祚に至ったと、含みを残して記す。そして両統の皇子をかわるがわる立てるという取り決め、いわゆる両統迭立を、鎌倉の側が「世をうたがはしく思ければにや」相談して決めたものとする。見出しも「第九十一代」とだけあって「第何世」を付けない。父から子へ正統が伝わった数には入れないという判断が、数え方そのものに表れている。なお崩じた年の五十歳は、生年から数えると合わない。

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