神皇正統記 / 巻四 第五十九代 宇多天皇
小野と云所にすまれけるより小野流と云ふ。しかれば法皇は両流の法主にまします也。王位をさりて釈門に入ことは其例おほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為の御政なりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名によりて、大納言大将まで登用し給しも此御時也。又譲国の時さま〴〵をしへ申されし、寛平の御誡とて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜より始る。」とみえたり。唐堯のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御寿も長て朱雀の御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おまし〳〵き。
書き下し
小野と云所にすまれけるより小野流と云ふ。しかれば法皇は両流の法主にまします也。王位をさりて釈門に入ことは其例おほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為の御政なりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名によりて、大納言大将まで登用し給しも此御時也。又譲国の時さまざまをしへ申されし、寛平の御誡とて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜より始る。」とみえたり。唐堯のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御寿も長て朱雀の御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おましましき。
現代語訳
小野という所に住まれたことから小野流という。そうであれば、法皇は両流の法主であられるのである。王位を去って仏門に入ることはその例が多い。このように法流の正統となり、しかも御子孫が皇統を継がれたのは、ありがたい例であろう。今の世までも、すぐれた御代としては延喜・天暦と言い習わしているが、この御代こそ上代に近いので、無為の御政治であったろうと推し量られる。菅原氏(道真)の才名によって、大納言・大将まで登用されたのもこの御代である。また国を譲られる時にさまざまに教え申された、寛平の御誡(寛平御遺誡)として、君も臣も仰ぎ見申し上げるものもある。昔、中国でも「天下の明徳は虞舜より始まる」と見えている。唐堯が用いられたことによって舜の徳も現れ、天下の道も明らかになったという。二代の明徳をもって、この御事を推し量り申し上げるべきである。御寿命も長くて、朱雀天皇の御代に亡くなられた。七十六歳まで存命であった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第九十代 後宇多院寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易の深き道をも愛成と云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右にあたはず。菅氏輔佐したてまつられき。其後も紀納言・善相公等の名儒ありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。此御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申人のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。此君は在位にても政事をしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせましましき。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給る。元亨のすゑ甲子の六月に五十八歳にてかくれましましき。
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『神皇正統記』巻四 第五十九代 宇多天皇第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省、光孝第三の子。御母皇太后班子の女王、仲野親王の女也。元慶の比、孫王にて源氏の姓を給らせまします。そのかみ、つねに鷹狩をこのませ給けるに、ある時賀茂大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。践祚の後、彼社の臨時の祭をはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。仁和三年丁未の秋、光孝御病ありしに、御兄の御子たちをゝきて譲をうけ給。先親王とし、皇太子にたち、即受禅。同年の冬即位。中一とせありて己酉に改元。践祚の初より太政大臣基経又関白せらる。此関白薨て後はしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御志ありきとぞ仰給ける。弘法大師四代の弟子益信僧正を御師にて東寺にして潅頂せさせ給。又智証大師の弟子増命僧正にも比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、仁和寺に伝侍は是なり。
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『神皇正統記』巻四 第五十九代 宇多天皇およそ弘法の流に広沢・小野の二あり。広沢は法皇の御弟子寛空僧正、寛空の弟子寛朝僧正。寛朝広沢にすまれしかば、かの流と云ふ。そのゝち代々の御室相伝へてたゞ人はあひまじはらず。小野の流は益信の相弟子に聖宝僧正とて知法無双の人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒おとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆につらなりて歎徳と云ことをつとめられたりき。延喜の護持僧にて、ことに崇重給き。其弟子観賢僧正もあひついで護持申。おなじく崇重ありき。綱中の法務を東寺の一阿闍梨につけられしもこの時より始る。此僧正は高野にまうでゝ、大師入定の窟を開て御髪を剃、法服をきせかへ申し人なり。其弟子淳祐相伴はれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障の至をなげきて卑下の心ありければ、弟子元杲僧都に許可ばかりにて授職をゆるさず。勅定によりて法皇の御弟子寛空にあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海僧正又知法の人なりき。
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『神皇正統記』巻五 帝王の学問大方この君は中古よりこなたにはありがたき御ことゝぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才きこえさせ給はざりしにや。寛平の御誡には、帝皇の御学問は群書治要などにてたりぬべし。雑文につきて政事をさまたげ給ふなとみえたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をもしらせたまひ、政事も明にましまししかば、先二代はことふりぬ、つぎては寛弘・延久をぞ賢王とも申める。和漢の古事をしらせ給はねば、政道もあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれる理なり。
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『神皇正統記』巻四 第六十代 醍醐天皇第六十代、第三十三世、醍醐天皇。諱は敦仁、宇多第一の子。御母贈皇太后藤原の胤子、内大臣高藤の女也。丁巳年即位、戊午に改元。大納言左大将藤原時平、大納言右大将菅氏、両人上皇の勅をうけて輔佐し申されき。後に左右の大臣に任てともに万機を内覧せられけりとぞ。御門御年十四にて位につき給。をさなくましまししかど、聡明叡哲にきこえ給き。両大臣天下の政をせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下のゝぞむ所なり。左相は譜第の器也ければ、すてられがたし。或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでに召仰玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、さまざまの讒をまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。此君の御一失と申伝はべり。但菅氏権化の御事なれば、末世のためにやありけん、はかりがたし。
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『神皇正統記』巻四 第六十代 醍醐天皇此君久く世をたもたせ給て、徳政をこのみ行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下泰平民間安穏にて、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、異域堯舜のかしこき道にもたぐへ申き。延喜七年丁卯年、もろこしの唐滅て梁と云国にうつりにけり。うちつゞき後唐・晋・漢・周となん云五代ありき。此天皇天下を治給こと三十三年。四十四歳おましましき。
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