神皇正統記 / 巻五 第九十代 後宇多院
嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立てぞおこなはせ給し。其後、々醍醐の御門位につきまし〳〵しかば、又しばらく世をしらせ給て、三とせばかり有てゆづりまし〳〵き。
書き下し
嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立てぞおこなはせ給し。其後、後醍醐の御門位につきましまししかば、又しばらく世をしらせ給て、三とせばかり有てゆづりましましき。
現代語訳
嵯峨の奥の大覚寺という所に、弘仁(嵯峨天皇)・寛平(宇多天皇)の昔の御跡を尋ねて、御寺などを多く建てて修行なさった。その後、後醍醐の帝が位にお即きになったので、またしばらく世を治められて、三年ほどして政をお譲りになった。
解説
短い記事だが、南朝の源流がここに見える。後宇多院は嵯峨の奥の大覚寺に、嵯峨天皇と宇多天皇の昔の跡を尋ねて寺々を建てた。大覚寺統という呼び名はこの寺に由来する。親房は「弘仁・寛平の昔」と書き、学問と信仰に深かった二人の天皇に後宇多院をなぞらえている。そして子の後醍醐天皇が即位すると、しばらく院政を行い、三年ほどで政務を譲った。後醍醐の親政はここから始まる。記事は淡々としているが、院が自ら退いて天皇親政に道を開いたことを、親房は好ましいこととして書き留めている。前段で後醍醐がまだ親王として東寺に列座していた姿が描かれ、この段で即位に至る。仕えた主君の来歴を、親房は穏やかな筆で追っている。権限を手放す時機を見定めることの大切さも読み取れる。
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇戊午の年即位、己未の夏四月に改元。々応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、夙におき、夜はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍き。かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮の御方にさぶらふ人々そはそはにきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申輩ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子の九月のすゑつかた、やうやう事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。
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『神皇正統記』巻五 第八十七代 後嵯峨院つひに継体の主として此御すゑならぬはましまさず。壬寅の年即位、癸卯の春改元。御身をつゝしみ給ければにや、天下を治給こと四年。太子をさなくましまししかども譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ給、御出家の後もかはらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おましましき。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇。諱は尊治、後宇多第二の御子。御母談天門院、藤原忠子、内大臣師継の女、実は入道参議忠継女なり。御祖父亀山の上皇やしなひ申給き。弘安に、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、たびたび関東に仰給しかば、天命の理かたじけなくおそれ思ければにや、俄に立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文ををさめ給しかど、一の御子さしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上の例により、太宰帥にて節会などに出させ給き。後に中務卿を兼せさせ給。後二条世をはやくしましまして、父の上皇なげかせ給し中にも、よろづこの君にぞ委附し申させ給ける。やがて儲君のさだめありしに、後二条の一のみこ邦良親王ゐ給べきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、此親王を太子にたて給。「かの一のみこをさなくましませば、御子の儀にて伝へさせ給べし。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし。」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝の御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなるべし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましましゝに、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへもろもろの道をこのみしらせ給こと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言をならはせ給。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正禅助に許可までうけ給けるとぞ。天子潅頂の例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師に潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁潅頂とぞ申める。此度はまことの授職とおぼしめしゝにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内にめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせましましけるにや。
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