神皇正統記 / 巻五 帝王の学問
大方この君は中古よりこなたにはありがたき御ことゝぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才きこえさせ給はざりしにや。寛平の御誡には、帝皇の御学問は群書治要などにてたりぬべし。雑文につきて政事をさまたげ給ふなとみえたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をもしらせたまひ、政事も明にまし〳〵しかば、先二代はことふりぬ、つぎては寛弘・延久をぞ賢王とも申める。和漢の古事をしらせ給はねば、政道もあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれる理なり。
書き下し
大方この君は中古よりこなたにはありがたき御ことゝぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才きこえさせ給はざりしにや。寛平の御誡には、帝皇の御学問は群書治要などにてたりぬべし。雑文につきて政事をさまたげ給ふなとみえたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をもしらせたまひ、政事も明にましまししかば、先二代はことふりぬ、つぎては寛弘・延久をぞ賢王とも申める。和漢の古事をしらせ給はねば、政道もあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれる理なり。
現代語訳
おおよそこの君は、中古よりこのかたではめったにないお方と申すべきである。学問の方面でも、後三条院の後にはこれほどの御才は聞こえなかったのではないか。宇多天皇の御遺誡には、帝王の御学問は『群書治要』などで足りるはずだ、雑多な文章にかかずらって政務を妨げられるな、と見えているようだ。しかし延喜・天暦・寛弘・延久の帝はみな広い才と博い見識をお持ちで、諸道にも通じられ、政務も明らかであられたので、先の二代は言うまでもなく、次いでは寛弘・延久を賢王とも申している。和漢の古い事例をご存じなければ、政道も明らかにならず、皇威も軽くなる。これは定まった道理である。
解説
後宇多院を評したのをきっかけに、帝王の学問論へ入る一段である。結論は明快だ。「和漢の古事をしらせ給はねば、政道もあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれる理なり」——歴史を知らなければ政治は明るくならず、権威も軽くなる。これを「定まった道理」と言い切る。ここで宇多天皇の遺誡が引かれるが、親房はそれを額面どおりには受け取らない。遺誡は「帝王の学問は『群書治要』程度で足りる、雑文にかまけて政を妨げるな」と読める。ところが実際に賢王とされた延喜・天暦・寛弘・延久の帝は、みな広く深く学んでいた。権威ある教えと、実際の事例が食い違っている。親房は事例のほうを信じ、次章で遺誡の読み方そのものを検討し直す。権威の言葉を鵜呑みにせず、結果と突き合わせるという手つきである。
この章句が説くこと
帝王の学問寛平の御誡和漢の古事権威と事例