神皇正統記 / 巻四 第五十九代 宇多天皇
第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省、光孝第三の子。御母皇太后班子の女王、仲野親王の女也。元慶の比、孫王にて源氏の姓を給らせまします。そのかみ、つねに鷹狩をこのませ給けるに、ある時賀茂大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。践祚の後、彼社の臨時の祭をはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。仁和三年丁未の秋、光孝御病ありしに、御兄の御子たちをゝきて譲をうけ給。先親王とし、皇太子にたち、即受禅。同年の冬即位。中一とせありて己酉に改元。践祚の初より太政大臣基経又関白せらる。此関白薨て後はしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御志ありきとぞ仰給ける。弘法大師四代の弟子益信僧正を御師にて東寺にして潅頂せさせ給。又智証大師の弟子増命僧正にも比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、仁和寺に伝侍は是なり。
書き下し
第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省、光孝第三の子。御母皇太后班子の女王、仲野親王の女也。元慶の比、孫王にて源氏の姓を給らせまします。そのかみ、つねに鷹狩をこのませ給けるに、ある時賀茂大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。践祚の後、彼社の臨時の祭をはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。仁和三年丁未の秋、光孝御病ありしに、御兄の御子たちをゝきて譲をうけ給。先親王とし、皇太子にたち、即受禅。同年の冬即位。中一とせありて己酉に改元。践祚の初より太政大臣基経又関白せらる。此関白薨て後はしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御志ありきとぞ仰給ける。弘法大師四代の弟子益信僧正を御師にて東寺にして潅頂せさせ給。又智証大師の弟子増命僧正にも比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、仁和寺に伝侍は是なり。
現代語訳
第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省、光孝天皇の第三皇子である。母は皇太后班子女王で、仲野親王の娘である。元慶のころ、孫王(天皇の孫の皇族)として源氏の姓を賜っておられた。そのころ、いつも鷹狩を好まれていたが、ある時賀茂大明神が現れて、皇位に就かれるであろうことをお示し申し上げた。践祚ののち、かの社の臨時の祭を始められたのは、大明神がそれをお望みになったからだという。仁和三年丁未(八八七年)の秋、光孝天皇がご病気になったとき、兄にあたる皇子たちを差し置いて譲りを受けられた。まず親王とし、皇太子に立て、すぐに受禅された。同じ年の冬に即位。一年おいて己酉の年に改元した。践祚の初めから太政大臣基経がまた関白をされた。この関白が亡くなってのちは、しばらくその人(関白)はいなかった。天下を治められたこと十年。位を皇太子に譲って太上天皇と申し上げた。一年ほどして出家なさった。御年三十三であったろうか。若いころからそのお志があったとおっしゃったという。弘法大師から四代の弟子である益信僧正を御師として、東寺で灌頂をお受けになった。また智証大師の弟子の増命僧正からも比叡山で灌頂をお受けになった。弘法大師の流れを主とされたので、その御法流として今も絶えず、仁和寺に伝わっているのはこれである。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第五十九代 宇多天皇小野と云所にすまれけるより小野流と云ふ。しかれば法皇は両流の法主にまします也。王位をさりて釈門に入ことは其例おほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為の御政なりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名によりて、大納言大将まで登用し給しも此御時也。又譲国の時さまざまをしへ申されし、寛平の御誡とて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜より始る。」とみえたり。唐堯のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御寿も長て朱雀の御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第九十代 後宇多院第九十代、第四十八世、後宇多院。諱は世仁、亀山の太子。御母皇后藤原の僖子、左大臣実雄の女也。甲戌の年即位、乙亥改元。丙子の年、もろこしの宋幼帝徳祐二年にあたる。ことし、北狄の種、蒙古おこりて元国と云しが宋の国を滅す。辛巳の年蒙古の軍おほく船をそろへて我国を侵す。筑紫にて大に合戦あり。神明、威をあらはし形を現じてふせがれけり。大風にはかにおこりて数十万艘の賊船みな漂倒破滅しぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約のかはらざることこれにておしはかるべし。この天皇天下を治給こと十三年。おもひの外にのがれましまして十余年ありき。後二条の御門立給しかば、世をしらせ給。遊義門院かくれまして、御歎のあまりにや、出家せさせ給。前大僧正禅助を御師として、宇多・円融の例により、東寺にて潅頂せさせ給。めづらかにたふとき事にはべりき。其日は後醍醐の御門、中務の親王とて王卿の座につかせ御座す。只今の心地ぞしはべる。後二条かくれさせ給しのち、いとゞ世をいとはせたまふ。
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『神皇正統記』巻五 第九十代 後宇多院寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易の深き道をも愛成と云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右にあたはず。菅氏輔佐したてまつられき。其後も紀納言・善相公等の名儒ありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。此御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申人のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。此君は在位にても政事をしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせましましき。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給る。元亨のすゑ甲子の六月に五十八歳にてかくれましましき。
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『神皇正統記』巻四 第五十三代 淳和天皇第五十三代、淳和天皇、西院の帝とも申。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の旅子、贈太政大臣百川の女也。癸卯年即位、甲辰に改元。天下を治給こと十年。太子にゆづりて太上天皇と申。此時両上皇ましましければ、嵯峨をば前太上天皇、此御門をば後太上天皇と申き。嵯峨御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子恒貞親王立給しが、両上皇かくれましゝ後にゆゑありてすてられ給き。五十七歳おましましき。
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