神皇正統記 / 巻五 第八十七代 後嵯峨院
第八十七代、第四十六世、後嵯峨院。諱は邦仁、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子、贈左大臣通宗の女、内大臣通親の孫女なり。承久のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方は父の院にも御傍親、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養し申てかくしおきたてまつりき。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼になり給て、御祖母承明門院になむうつろひまし〳〵ける。二十二歳の御年、春正月十日四条院俄に晏駕、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御方の外家におはせしかば、此御流を天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時はからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかくきこえさせ給しかば、天照太神の冥慮に代てはからひ申けるもことわり也。
書き下し
第八十七代、第四十六世、後嵯峨院。諱は邦仁、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子、贈左大臣通宗の女、内大臣通親の孫女なり。承久のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方は父の院にも御傍親、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養し申てかくしおきたてまつりき。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼になり給て、御祖母承明門院になむうつろひましましける。二十二歳の御年、春正月十日四条院俄に晏駕、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御方の外家におはせしかば、此御流を天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時はからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかくきこえさせ給しかば、天照太神の冥慮に代てはからひ申けるもことわり也。
現代語訳
第八十七代、第四十六世、後嵯峨院。諱は邦仁、土御門院の第二の御子である。御母は贈皇太后源通子で、贈左大臣通宗の娘、内大臣通親の孫娘である。承久の乱があった時、二歳になっておられた。通親の大臣の四男で大納言の通方は、父の院(土御門院)にも御近親であり、贈皇后にもゆかりがあったので、引き取って養い申し、人目につかぬようかくまい申した。十八歳の御年であったろうか、その大納言までも早く亡くなったので、いっそう頼るところがなくなり、御祖母の承明門院のもとにお移りになっていた。二十二歳の御年、春正月十日に四条院がにわかに崩御され、皇子もなかった。御兄弟の皇子もおられなかった。順徳院はまだ佐渡におられたが、御子たちは多く都にとどまっておられ、入道摂政道家の大臣はあちらの御方の外戚であったので、この御流れを天位にお即け申し、もとのままに世を治めようと思われたのだろうか、その旨を鎌倉へ仰せ遣わしたけれども、鎌倉の義時の子の泰時が取り計らい申して、この君をお据え申した。まことに天命であり、正しい道理である。土御門院は御兄であり、御心ばえも穏やかで、孝行も深いと聞こえておられたので、泰時が天照大神の御心に代わって取り計らい申したのも道理である。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第八十七代 後嵯峨院つひに継体の主として此御すゑならぬはましまさず。壬寅の年即位、癸卯の春改元。御身をつゝしみ給ければにや、天下を治給こと四年。太子をさなくましまししかども譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ給、御出家の後もかはらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第八十三代 土御門院第八十三代、第四十五世、土御門院。諱は為仁、後鳥羽の太子。御母承明門院、源在子、内大臣通親の女也。父の御門の例にて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午の年即位、己未に改元。天下を治給こと十二年。太弟にゆづりて尊号例の如し。此御門まさしき正嫡にて御心ばへもたゞしくきこえ給しに、上皇鍾愛にうつされましけるにや、ほどなく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成にき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給ければにや、さまざまいさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石ともにこがれて、阿波国にてかくれさせ給。三十七歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第八十七代 後嵯峨院これを思もいれず、あるにまかせて欲をほしきまゝにし、私をさきとして公をわするゝ心あるならば、世に久きことわりもはべらじ。いはんや国柄をとる仁にあたり、兵権をあづかる人として、正路をふまざらんにおきて、いかで其運をまたくすべき。泰時が昔を思には、よくまことある所有けむかし。子孫はさ程の心あらじなれど、かたくしける法のまゝにおこなひければ、およばずながら世をもかさねしにこそ。異朝のことは乱逆にして紀なきためしおほければ、例とするにたらず。我国は神明の誓いちじるくして、上下の分さだまれり。しかも善悪の報あきらかに、困果のことわりむなしからず。かつはとほからぬことゞもなれば、近代の得失をみて将来の鑑誡とせらるべきなり。抑此天皇正路にかへりて、日嗣をうけ給し、さきだちてさまざまの奇瑞ありき。又土御門院阿波国にて告文をかゝせまして、石清水の八幡宮に啓白せさせ給ける、其御本懐すゑとほりにしかば、さまざまの御願をはたされしもあはれなる御こと也。
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『神皇正統記』巻五 第八十八代 後深草院第八十八代、後深草院。諱は久仁、後嵯峨第二の子。御母大宮院、藤原の姞子、太政大臣実氏の女也。丙午の年四歳にて即位、丁未に改元。天下を治給こと十三年。后腹の長子にてましまししかども、御病おはしましければ、同母の御弟恒仁親王を太子にたてゝ、譲国、尊号例のごとし。伏見御代にぞしばらく政をしらせ給しが、御出家ありて政務をば主上に譲り申させ給。五十八歳おましましき。
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