神皇正統記 / 巻五 第八十七代 後嵯峨院
大方泰時心たゞしく政すなほにして、人をはぐゝみ物におごらず、公家の御ことをおもくし、本所のわづらひをとゞめしかば、風の前に塵なくして、天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣として久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。其主たりし頼朝すら二世をばすぎず。義時いかなる果報にか、はからざる家業をはじめて、兵馬の権をとれりし、ためしまれなることにや。されどことなる才徳はきこえず。又大名の下にほこる心や有けん、中二とせばかりぞありし、身まかりしかど、彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をかたくす。己が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、高官位をのぞむ者なかりき。其政次第のままにおとろへ、つひに滅ぬるは天命のをはるすがたなり。七代までたもてるこそ彼が余薫なれば、恨ところなしと云つべし。
書き下し
大方泰時心たゞしく政すなほにして、人をはぐゝみ物におごらず、公家の御ことをおもくし、本所のわづらひをとゞめしかば、風の前に塵なくして、天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣として久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。其主たりし頼朝すら二世をばすぎず。義時いかなる果報にか、はからざる家業をはじめて、兵馬の権をとれりし、ためしまれなることにや。されどことなる才徳はきこえず。又大名の下にほこる心や有けん、中二とせばかりぞありし、身まかりしかど、彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をかたくす。己が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、高官位をのぞむ者なかりき。其政次第のままにおとろへ、つひに滅ぬるは天命のをはるすがたなり。七代までたもてるこそ彼が余薫なれば、恨ところなしと云つべし。
現代語訳
おおよそ泰時は心が正しく政もまっすぐで、人を育み、物事に驕らず、朝廷のことを重んじ、本所(荘園領主)の煩いを止めたので、風の前に塵がないように、天下はたちまち静まった。こうして年代を重ねたことは、ひとえに泰時の力と申し伝えている。陪臣(臣下の臣下)の身で長く権をとることは、和漢の両朝に先例がない。その主であった頼朝でさえ二代を越えなかった。義時はどういう果報であったのか、思いもよらない家業を始めて兵馬の権をとったのは、まれな例であろうか。しかし格別の才能や徳は聞こえない。また大きな名声の下に驕る心があったのだろうか、中二年ほどあって亡くなったけれども、あの泰時が引き継いで、徳のある政を第一とし、法の定めを固くした。自分の分をわきまえるだけでなく、親族やあらゆる武士までも戒めて、高い官位を望む者はなかった。その政が次第に衰え、ついに滅んだのは、天命の終わる姿である。七代まで保ったのは泰時の残した徳の香りなのだから、恨むところはないと言うべきである。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第八十七代 後嵯峨院これを思もいれず、あるにまかせて欲をほしきまゝにし、私をさきとして公をわするゝ心あるならば、世に久きことわりもはべらじ。いはんや国柄をとる仁にあたり、兵権をあづかる人として、正路をふまざらんにおきて、いかで其運をまたくすべき。泰時が昔を思には、よくまことある所有けむかし。子孫はさ程の心あらじなれど、かたくしける法のまゝにおこなひければ、およばずながら世をもかさねしにこそ。異朝のことは乱逆にして紀なきためしおほければ、例とするにたらず。我国は神明の誓いちじるくして、上下の分さだまれり。しかも善悪の報あきらかに、困果のことわりむなしからず。かつはとほからぬことゞもなれば、近代の得失をみて将来の鑑誡とせらるべきなり。抑此天皇正路にかへりて、日嗣をうけ給し、さきだちてさまざまの奇瑞ありき。又土御門院阿波国にて告文をかゝせまして、石清水の八幡宮に啓白せさせ給ける、其御本懐すゑとほりにしかば、さまざまの御願をはたされしもあはれなる御こと也。
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『神皇正統記』巻五 第八十七代 後嵯峨院凡保元・平治よりこのかたのみだりがはしさに、頼朝と云人もなく、泰時と云者なからましかば、日本国の人民いかゞなりなまし。此いはれをよくしらぬ人は、ゆゑもなく、皇威のおとろへ、武備のかちにけるとおもへるはあやまりなり。所々に申はべることなれど、天日嗣は御譲にまかせ、正統にかへらせ給にとりて、用意あるべきことの侍也。神は人をやすくするを本誓とす。天下の万民は皆神物なり。君は尊くましませど、一人をたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、政の可否にしたがひて御運の通塞あるべしとぞおぼえ侍る。まして人臣としては、君をたふとび民をあはれみ、天にせくゝまり地にぬきあしゝ、日月のてらすをあふぎても心の黒して光にあたらざらんことをおぢ、雨露のほどこすをみても身のただしからずしてめぐみにもれんことをかへりみるべし。朝夕に長田狭田の稲のたねをくふも皇恩也。昼夜に生井栄井の水のながれを飲も神徳也。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇近ごろ伏見の御時、源為頼と云をのこ内裏にまゐりて自害したりしが、かねて諸社に奉る矢にも、その夜射ける矢にも、大政大臣源為頼とかきたりし、いとをかしきことに申めれど、人の心のみだりになり行すがたはこれにておしはかるべし。義時などはいかほどもあがるべくやありけん。されど正四位下右京権大夫にてやみぬ。まして泰時が世になりては子孫の末をかけてよくおきておきければにや。滅びしまでもつひに高官にのぼらず、上下の礼節をみだらず。近く維貞といひしもの吹挙によりて修理大夫になりしをだにいかがと申ける。まことに其の身もやがてうせ侍りにき。父祖のおきてにたがふは家門をうしなふしるしなり。人は昔をわするゝものなれど、天は道をうしなはざるなるべし。さらばなど天は正理のまゝにおこなはれぬと云こと、うたがはしけれど、人の善悪はみづからの果報也。世のやすからざるは時の災難なり。
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『神皇正統記』巻五 徳政なくして頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下を掌にせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。況や其跡たえて後室の尼公陪臣の義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云も一往いひなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道のふるきすがたやうやうおとろへ、後白河の御時兵革おこりて姦臣世をみだる。天下の民ほとんど塗炭におちにき。頼朝一臂をふるひて其乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もをさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとはきこえず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがへさるべき。
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『神皇正統記』巻五 王者の軍縦又うしなはれぬべくとも、民やすかるまじくは、上天よもくみし給はじ。次に王者の軍と云は、とがあるを討じて、きずなきをばほろぼさず。頼朝高官にのぼり、守護の職を給、これみな法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久く彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申べき。謀叛おこしたる朝敵の利を得たるには比量せられがたし。
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『神皇正統記』巻五 第八十七代 後嵯峨院第八十七代、第四十六世、後嵯峨院。諱は邦仁、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子、贈左大臣通宗の女、内大臣通親の孫女なり。承久のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方は父の院にも御傍親、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養し申てかくしおきたてまつりき。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼になり給て、御祖母承明門院になむうつろひましましける。二十二歳の御年、春正月十日四条院俄に晏駕、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御方の外家におはせしかば、此御流を天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時はからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかくきこえさせ給しかば、天照太神の冥慮に代てはからひ申けるもことわり也。
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