神皇正統記 / 巻五 第八十六代 四条院
第八十六代、四条院。諱は秀仁、後堀河の太子。御母藻壁門院、藤原の竴子、摂政左大臣道家女也。壬辰の年即位、癸巳に改元、例のごとし。一とせばかり有て、上皇かくれ給しかば、外祖にて道家のおとゞ王室の権をとりて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経も此大臣の胤子なれば、文武一にて権勢おはしけるとぞ。天下を治給こと十年。俄に世をはやくし給。十二歳おまし〳〵き。
書き下し
第八十六代、四条院。諱は秀仁、後堀河の太子。御母藻壁門院、藤原の竴子、摂政左大臣道家女也。壬辰の年即位、癸巳に改元、例のごとし。一とせばかり有て、上皇かくれ給しかば、外祖にて道家のおとゞ王室の権をとりて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経も此大臣の胤子なれば、文武一にて権勢おはしけるとぞ。天下を治給こと十年。俄に世をはやくし給。十二歳おましましき。
現代語訳
第八十六代、四条院。諱は秀仁、後堀河天皇の皇太子である。御母は藻壁門院、藤原竴子で、摂政左大臣道家の娘である。壬辰の年(1232年)に即位し、癸巳に改元したのは例のとおりである。一年ほどして上皇(後堀河院)がお隠れになったので、外祖父である道家の大臣が王室の権をとって、昔の摂政・関白のようであった。東国で仰いでいた征夷大将軍頼経もこの大臣の実子であったので、文と武が一つになって権勢をふるわれたという。天下を治められたこと十年。にわかに早くお亡くなりになった。十二歳であられた。
解説
四条天皇の短い記事から、九条道家の権勢が浮かび上がる。道家は天皇の外祖父として朝廷の実権を握り、しかも鎌倉の将軍頼経は道家の子であった。「文武一にて権勢おはしけるとぞ」。京の朝廷と鎌倉の幕府の頂点が、一つの家で結ばれていたのである。摂関政治の再来とも見える姿を、親房は「昔の執政のごとく」と表現する。しかしその繁栄は、幼い天皇の急死によって一気に揺らぐ。十二歳で世継ぎもなく亡くなったことが、次の後嵯峨天皇の擁立をめぐる争いにつながっていく。世の数が付いていないのは、四条の筋が正統として続かなかったためである。外戚と将軍の父という二重の地位も、要となる一人の命にすべてが懸かっていた。権勢の脆さを、短い記事が静かに示している。
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