神皇正統記 / 巻四 第六十七代 三条院
第六十七代、三条院。諱は居貞、冷泉第二の子。御母皇太后藤原[の]超子、これも摂政兼家の女也。花山院世をのがれ給しかば、太子に立給しが、御邪気のゆゑにや、をり〳〵御目のくらくおはしけるとぞ。辛亥年即位、壬子に改元。天下を治給こと五年。尊号ありき。四十二歳おまし〳〵き。
書き下し
第六十七代、三条院。諱は居貞、冷泉第二の子。御母皇太后藤原の超子、これも摂政兼家の女也。花山院世をのがれ給しかば、太子に立給しが、御邪気のゆゑにや、をりをり御目のくらくおはしけるとぞ。辛亥年即位、壬子に改元。天下を治給こと五年。尊号ありき。四十二歳おましましき。
現代語訳
第六十七代、三条院。諱は居貞、冷泉院の第二皇子である。母は皇太后藤原超子で、これも摂政兼家の娘である。花山院が世を逃れられたので皇太子に立たれたが、物の怪のためであろうか、ときどき御目が見えにくくおなりになったという。辛亥の年(一〇一一年)に即位し、壬子の年に改元した。天下を治められたこと五年。尊号を受けられた。四十二歳まで存命であった。
解説
三条天皇の短い記事である。冷泉の皇子であり、冷泉と円融の二つの系統が交互に位に就く取り決めによって即位した。「第何世」がないのは、この系統が後に続かなかったからである。親房が記すのは、物の怪のせいか目がよく見えなかったこと、在位五年で退いたことくらいである。この天皇が藤原道長と折り合わず、目の病を理由に退位を迫られたことは一般に知られているが、親房はそこに踏み込まない。何を書き何を書かないかという選び方そのものに、この書の性格が表れている。親房は藤原氏の専権を批判する言葉も持っているが、一人ひとりの天皇の記事では、事実を短く並べるにとどめることが多い。書かれていないことを読み取ろうとする姿勢は、古典だけでなく、あらゆる報告書を読むときにも役に立つ。
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