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神皇正統記 / 巻五 廃帝仲恭天皇〜第八十五代 後堀河院

つひにしては、継体の道も正路にかへり、御子孫の世に一統の聖運をひらかれぬれば、御本意の末達せぬにはあらざれど、一旦もしづませ給しこそ口惜はべれ。第八十五代、後堀河院。諱は茂仁、二品守貞親王第三の子。御母北白河院、藤原陳子、入道中納言基家の女なり。入道親王は高倉第三の御子、後鳥羽同胞の御兄、後白河の御えらびにもれ給し御こと也。承久にことありて、後鳥羽の御ながれのほか、この御子ならでは皇胤ましまさず。よりて此孫王を天位につけたてまつる。入道親王尊号ありて太上皇と申て、世をしらせ給。追号の例は文武の御父草壁の太子を長岡の天皇と申、淡路の帝御父舎人親王を尽敬天皇と申、光仁の御父施基の王子を、田原天皇と申。早良の廃太子は怨霊をやすめられんとて崇道天皇の号をおくらる。院号ありしことは小一条院ぞましける。此天皇辛巳年即位、壬午に改元。天下を治給こと十一年。太子に譲て尊号例のごとし。しばらく政をしらせ給しが、二十一歳にて世をはやくしおまし〳〵き。

書き下し

つひにしては、継体の道も正路にかへり、御子孫の世に一統の聖運をひらかれぬれば、御本意の末達せぬにはあらざれど、一旦もしづませ給しこそ口惜はべれ。第八十五代、後堀河院。諱は茂仁、二品守貞親王第三の子。御母北白河院、藤原陳子、入道中納言基家の女なり。入道親王は高倉第三の御子、後鳥羽同胞の御兄、後白河の御えらびにもれ給し御こと也。承久にことありて、後鳥羽の御ながれのほか、この御子ならでは皇胤ましまさず。よりて此孫王を天位につけたてまつる。入道親王尊号ありて太上皇と申て、世をしらせ給。追号の例は文武の御父草壁の太子を長岡の天皇と申、淡路の帝御父舎人親王を尽敬天皇と申、光仁の御父施基の王子を、田原天皇と申。早良の廃太子は怨霊をやすめられんとて崇道天皇の号をおくらる。院号ありしことは小一条院ぞましける。此天皇辛巳年即位、壬午に改元。天下を治給こと十一年。太子に譲て尊号例のごとし。しばらく政をしらせ給しが、二十一歳にて世をはやくしおましましき。

現代語訳

結局のところは、皇統の継承の道も正しい筋に返り、御子孫の世に天下統一の聖なる運を開かれたのだから、御本意が末に達しなかったわけではないけれども、いっときでも沈まれたことは口惜しいことである。第八十五代、後堀河院。諱は茂仁、二品守貞親王の第三の子である。御母は北白河院、藤原陳子で、入道中納言基家の娘である。入道親王(守貞親王)は高倉天皇の第三の御子で、後鳥羽院の同母の兄であり、後白河院の御選びから漏れられた方である。承久に事があって、後鳥羽院の御流れのほかには、この御子のほかに皇胤がおられなかった。そこでこの孫王を天位にお即け申した。入道親王は尊号を受けて太上皇と申し、世を治められた。追号の例は、文武天皇の御父の草壁皇太子を長岡天皇と申し、淡路の帝(淳仁天皇)の御父の舎人親王を尽敬天皇と申し、光仁天皇の御父の施基皇子を田原天皇と申す。早良の廃太子は、怨霊を鎮めようとして崇道天皇の号を贈られた。院号があったことは、小一条院がおられた。この天皇は辛巳の年(1221年)に即位し、壬午に改元した。天下を治められたこと十一年。皇太子に位を譲り、尊号は例のとおりであった。しばらく政をおとりになったが、二十一歳で早くお亡くなりになった。

解説

承久の乱の敗北を受けて、親房がまず後鳥羽院の側から結論を置く段である。いっときは沈んだが、結局は継体の道が正しい筋に返り、子孫の世に一統の運が開かれたのだから、本意が遂げられなかったわけではない。後醍醐天皇の建武の新政を指して、承久の雪辱がそこで果たされたと見ているのである。続いて後堀河天皇の即位の事情が語られる。乱後、後鳥羽院の血筋を外すと皇胤がいないため、かつて後白河院の選びに漏れた守貞親王の子が立てられ、守貞は位に即かないまま太上皇として院政を行った。親房はこの異例を、草壁皇子・舎人親王・施基皇子・崇道天皇・小一条院という追号と院号の先例を並べて位置づける。前例のない事態にも、近い先例を探して並べ、理解の足場を作る。これが親房の一貫した方法である。

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