神皇正統記 / 巻五 第七十六代 近衛院
第七十六代、近衛院。諱は体仁、鳥羽第八の子。御母皇后藤原得子、贈左大臣長実の女也。辛酉年即位、壬戌に改元。天下を治給こと十四年。十七歳にて世をはやくしまし〳〵き。
書き下し
第七十六代、近衛院。諱は体仁、鳥羽第八の子。御母皇后藤原得子、贈左大臣長実の女也。辛酉年即位、壬戌に改元。天下を治給こと十四年。十七歳にて世をはやくしましましき。
現代語訳
第七十六代、近衛院。諱は体仁、鳥羽天皇の第八の子である。御母は皇后藤原得子で、贈左大臣長実の娘である。辛酉の年(1141年)に即位し、壬戌に改元した。天下を治められたこと十四年。十七歳で早くお亡くなりになった。
解説
わずか数行の記事だが、次の保元の乱の火種がここにある。近衛天皇は鳥羽院が寵愛した藤原得子(美福門院)の子で、兄の崇徳を退けて三歳で位に即けられた。親房はその事情をここでは書かず、系譜と在位年数、十七歳での早世だけを記す。世の数も付していない。子を残さずに亡くなり、正統の線にならなかったからである。この書が「代」と「世」を分けて数えるのは、即位した順番と、父から子へ正統が伝わった筋とを混同しないためだ。近衛の早世によって後継が問題となり、それが崇徳と後白河、摂関家の兄弟の対立に結びついて保元の乱に至る。記事の短さそのものが、この天皇が自分の意志で何かをなす前に世を去ったことを語っている。後継を一人に賭けることの危うさも、ここから読み取れる。
関連する章句
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