神皇正統記 / 巻五 第七十九代 六条院
第七十九代、六条院。諱は順仁、二条の太子。御母大蔵少輔伊岐兼盛が女也乙酉の年即位、丙戌に改元。天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給しが、二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世をはやくしまし〳〵き。
書き下し
第七十九代、六条院。諱は順仁、二条の太子。御母大蔵少輔伊岐兼盛が女也乙酉の年即位、丙戌に改元。天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給しが、二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世をはやくしましましき。
現代語訳
第七十九代、六条院。諱は順仁、二条天皇の皇太子である。御母は大蔵少輔伊岐兼盛の娘である。乙酉の年(1165年)に即位し、丙戌に改元した。天下を治められたこと三年。上皇(後白河院)が世を治めておられたが、二条の帝のことで心よくお思いにならなかったためであろうか、早々に位を譲る事があった。御元服などもなくて、十三歳で早くお亡くなりになった。
解説
二歳で即位し、五歳で退位させられ、十三歳で亡くなった天皇の記事である。親房はその理由を「二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや」と推し量る。父の二条天皇が後白河院と対立していたため、院はその子の在位を好まず、早々に高倉天皇へ位を移させた、というのである。院政のもとでは、天皇の在位そのものが院の意向で左右された。元服もせず、世の数も付されずに記録が終わる。母が大蔵少輔という低い身分の家の出であることも、あえて書き留められている。外戚の後ろ盾のなさが、幼い天皇の立場の弱さを物語る。親の代の対立が子の代に持ち越される。組織の後継でも、前任者と実力者の不和が、何も知らない後任に降りかかることがある。
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