神皇正統記 / 巻五 第八十四代 順徳院
第八十四代、順徳院。諱は守成、後鳥羽第三の子。御母修明門院、藤原の重子、贈左大臣範季の女也。庚午の年即位、辛未に改元。此御時征夷大将軍頼朝[の]次郎実朝、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督頼家が子に、公暁と云ける法師にころされぬ。又継人なくて頼朝が跡はながくたえにき。頼朝が後室に従二位平政子とて、時政と云ものゝ女也し、東国のことをばおこなひき。其弟義時兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申て、あふぎ奉るべきよし奏しけれど、不許にや有けん、九条摂政道家のおとゞは頼朝の時より外戚につゞきてよしみおはしければ、其子をくだして扶持し申ける。大方のことは義時がまゝになりにき。天下を治給こと十一年。譲国ありしが、事みだれて、佐渡国にうつされ給。四十六歳おまし〳〵き。
書き下し
第八十四代、順徳院。諱は守成、後鳥羽第三の子。御母修明門院、藤原の重子、贈左大臣範季の女也。庚午の年即位、辛未に改元。此御時征夷大将軍頼朝の次郎実朝、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督頼家が子に、公暁と云ける法師にころされぬ。又継人なくて頼朝が跡はながくたえにき。頼朝が後室に従二位平政子とて、時政と云ものゝ女也し、東国のことをばおこなひき。其弟義時兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申て、あふぎ奉るべきよし奏しけれど、不許にや有けん、九条摂政道家のおとゞは頼朝の時より外戚につゞきてよしみおはしければ、其子をくだして扶持し申ける。大方のことは義時がまゝになりにき。天下を治給こと十一年。譲国ありしが、事みだれて、佐渡国にうつされ給。四十六歳おましましき。
現代語訳
第八十四代、順徳院。諱は守成、後鳥羽天皇の第三の子である。御母は修明門院、藤原重子で、贈左大臣範季の娘である。庚午の年(1210年)に即位し、辛未に改元した。この御時、征夷大将軍頼朝の次男実朝は右大臣・左大将にまでなったが、兄の左衛門督頼家の子で公暁という法師に殺された。また跡継ぎがなくて、頼朝の家系は長く絶えてしまった。頼朝の後室に従二位平政子といって、時政という者の娘であった人が、東国のことを取り仕切った。その弟の義時が兵権をとったが、上皇の御子を鎌倉に下し申して将軍として仰ぎ申したいと奏上したけれども、お許しがなかったのであろうか、九条摂政道家の大臣は、頼朝の時から外戚の縁でつながりがあったので、その子を下して扶け申した。おおよその事は義時の思うままになった。天下を治められたこと十一年。位を譲られたが、事が乱れて佐渡国へ移された。四十六歳であられた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院あらゆる庄園郷保に地頭を補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前右兵衛佐なりしが、義仲追討の賞に越階して正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二位に叙す。建久の初にはじめて京上して、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりに辞申けれど、叡慮によりて朝奨ありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉の館になんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき。平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗と云上人すゝめたてければ、公家にも委任せられ、頼朝もふかく随喜してほどなく再興す。供養の儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京上しけり。かつは結縁のため、かつは警固のためなりき。法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久に、ことありて御出家、隠岐国にてかくれ給ぬ。六十一歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 徳政なくして頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下を掌にせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。況や其跡たえて後室の尼公陪臣の義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云も一往いひなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道のふるきすがたやうやうおとろへ、後白河の御時兵革おこりて姦臣世をみだる。天下の民ほとんど塗炭におちにき。頼朝一臂をふるひて其乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もをさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとはきこえず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがへさるべき。
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『神皇正統記』巻五 第八十六代 四条院第八十六代、四条院。諱は秀仁、後堀河の太子。御母藻壁門院、藤原の竴子、摂政左大臣道家女也。壬辰の年即位、癸巳に改元、例のごとし。一とせばかり有て、上皇かくれ給しかば、外祖にて道家のおとゞ王室の権をとりて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経も此大臣の胤子なれば、文武一にて権勢おはしけるとぞ。天下を治給こと十年。俄に世をはやくし給。十二歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第七十五代 崇徳院第七十五代、崇徳院。諱は顕仁、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子、入道大納言公実の女也。癸卯の年即位、甲辰に改元。戊申年、宋欽宗皇帝靖康三年にあたる。宋の政みだれしより北狄の金国起て上皇徽宗並に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりて杭州と云所に都をたてゝ行在所とす。南渡と云はこれ也。此天皇天下を治給こと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給き。保元に、事ありて御出家ありしが、讃岐国にうつされ給。四十六歳おましましき。
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