神皇正統記 / 巻五 第八十三代 土御門院
第八十三代、第四十五世、土御門院。諱は為仁、後鳥羽の太子。御母承明門院、源在子、内大臣通親の女也。父の御門の例にて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午の年即位、己未に改元。天下を治給こと十二年。太弟にゆづりて尊号例の如し。此御門まさしき正嫡にて御心ばへもたゞしくきこえ給しに、上皇鍾愛にうつされましけるにや、ほどなく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成にき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給ければにや、さま〴〵いさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石ともにこがれて、阿波国にてかくれさせ給。三十七歳おまし〳〵き。
書き下し
第八十三代、第四十五世、土御門院。諱は為仁、後鳥羽の太子。御母承明門院、源在子、内大臣通親の女也。父の御門の例にて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午の年即位、己未に改元。天下を治給こと十二年。太弟にゆづりて尊号例の如し。此御門まさしき正嫡にて御心ばへもたゞしくきこえ給しに、上皇鍾愛にうつされましけるにや、ほどなく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成にき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給ければにや、さまざまいさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石ともにこがれて、阿波国にてかくれさせ給。三十七歳おましましき。
現代語訳
第八十三代、第四十五世、土御門院。諱は為仁、後鳥羽天皇の皇太子である。御母は承明門院、源在子で、内大臣通親の娘である。父の帝の例にならって親王の宣旨はなかった。立太子の儀だけで、すぐに践祚があった。戊午の年(1198年)に即位し、己未に改元した。天下を治められたこと十二年。皇太弟に位を譲り、尊号は例のとおりであった。この帝はまさしく正嫡であって、御心ばえも正しいと聞こえておられたのに、上皇(後鳥羽院)の寵愛が弟君に移られたのであろうか、ほどなく位を譲られた。御子の立太子さえもない有様になってしまった。承久の乱では、時機が熟していないことをご存じだったからであろうか、いろいろと諫められたけれども、事が破れてしまったので、玉も石もともに焼かれるように巻き込まれて、阿波国でお隠れになった。三十七歳であられた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第八十七代 後嵯峨院第八十七代、第四十六世、後嵯峨院。諱は邦仁、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子、贈左大臣通宗の女、内大臣通親の孫女なり。承久のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方は父の院にも御傍親、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養し申てかくしおきたてまつりき。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼になり給て、御祖母承明門院になむうつろひましましける。二十二歳の御年、春正月十日四条院俄に晏駕、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御方の外家におはせしかば、此御流を天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時はからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかくきこえさせ給しかば、天照太神の冥慮に代てはからひ申けるもことわり也。
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