神皇正統記 / 巻五 廃帝仲恭天皇
廃帝。諱は懐成、順徳の太子。御母東一条院、藤原充子、故摂政太政大臣良経女也。承久三年春の比より上皇おぼしめしたつことありければ、にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも一御心にせさせ給はん御はかりことにや、新主に譲位ありしかど、即位登壇までもなくて軍やぶれしかば、外舅摂政道家の大臣の九条の第へのがれさせ給。三種神器をば閑院の内裏にすておかれにき。譲位の後七十七け日のあひだ、しばらく神器を伝給しかども、日嗣にはくはへたてまつらず。飯豊の天皇の例になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。
書き下し
廃帝。諱は懐成、順徳の太子。御母東一条院、藤原充子、故摂政太政大臣良経女也。承久三年春の比より上皇おぼしめしたつことありければ、にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも一御心にせさせ給はん御はかりことにや、新主に譲位ありしかど、即位登壇までもなくて軍やぶれしかば、外舅摂政道家の大臣の九条の第へのがれさせ給。三種神器をば閑院の内裏にすておかれにき。譲位の後七十七け日のあひだ、しばらく神器を伝給しかども、日嗣にはくはへたてまつらず。飯豊の天皇の例になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。
現代語訳
廃帝。諱は懐成、順徳天皇の皇太子である。御母は東一条院、藤原充子で、故摂政太政大臣良経の娘である。承久三年の春のころから上皇(後鳥羽院)がお思い立ちになることがあったので、順徳天皇はにわかに位を譲られた。順徳院は御身を軽くして、合戦の事をも心を一つにしてなさろうとのお考えであったのだろうか、新しい主に位を譲られたけれども、即位の登壇の儀までもなくて戦に敗れたので、この帝は外戚の叔父である摂政道家の大臣の九条の邸へ逃れられた。三種の神器は閑院の内裏に捨て置かれた。譲位の後七十七日の間、しばらく神器を伝えておられたけれども、皇位の継承の数には加え申さない。飯豊天皇の例になぞらえ申すべきであろう。元服などもなくて、十七歳でお隠れになった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 廃帝(仲恭天皇)〜第八十五代 後堀河院つひにしては、継体の道も正路にかへり、御子孫の世に一統の聖運をひらかれぬれば、御本意の末達せぬにはあらざれど、一旦もしづませ給しこそ口惜はべれ。第八十五代、後堀河院。諱は茂仁、二品守貞親王第三の子。御母北白河院、藤原陳子、入道中納言基家の女なり。入道親王は高倉第三の御子、後鳥羽同胞の御兄、後白河の御えらびにもれ給し御こと也。承久にことありて、後鳥羽の御ながれのほか、この御子ならでは皇胤ましまさず。よりて此孫王を天位につけたてまつる。入道親王尊号ありて太上皇と申て、世をしらせ給。追号の例は文武の御父草壁の太子を長岡の天皇と申、淡路の帝御父舎人親王を尽敬天皇と申、光仁の御父施基の王子を、田原天皇と申。早良の廃太子は怨霊をやすめられんとて崇道天皇の号をおくらる。院号ありしことは小一条院ぞましける。此天皇辛巳年即位、壬午に改元。天下を治給こと十一年。太子に譲て尊号例のごとし。しばらく政をしらせ給しが、二十一歳にて世をはやくしおましましき。
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