神皇正統記 / 巻四 第六十八代 後一条院
円融も一腹の御弟におはしませど、これまではなやまし申ささゝりけるもしかるべき継体の御運まし〳〵けるにこそ。東宮しりぞき給しかば、此天皇同母の御弟敦良親王立給き。天皇も御子なくて、彼東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。天皇天下を治給こと二十年。二十九歳おまし〳〵き。
書き下し
円融も一腹の御弟におはしませど、これまではなやまし申ささゝりけるもしかるべき継体の御運ましましけるにこそ。東宮しりぞき給しかば、此天皇同母の御弟敦良親王立給き。天皇も御子なくて、彼東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。天皇天下を治給こと二十年。二十九歳おましましき。
現代語訳
円融院も同じ母の弟であられたが、ここまでは怨霊が悩まし申し上げなかったのも、しかるべき皇統を継ぐ御運がおありだったからであろう。東宮が退かれたので、この天皇と同じ母の弟の敦良親王が立たれた。天皇にも御子がなくて、あの東宮(敦良)の御末が皇統を継がれることになった。天皇は天下を治められたこと二十年。二十九歳まで存命であった。
解説
前の段の続きで、なぜ円融の系統だけが怨霊を免れたのかを述べる。同じ母から生まれた弟でありながら悩まされなかったのは、「しかるべき継体の御運」、皇統を継ぐべき運があったからだと親房は言う。怨霊による説明と天命による説明を重ねて、結果として正統が円融の側に落ち着いた理由を示している。後一条天皇には子がなく、同母の弟の敦良親王が皇太子に立ち、その子孫が皇統を継いでいく。後一条自身に「第何世」が付かないのはこのためで、正統は兄から弟へ、弟からその子へと伝わった。この書の数え方では、皇位に就いたことと、正統を後に伝えたこととは別の事柄である。代は即位の順を、世は後に続く血の道筋を数える。一代で見事な実績を上げることと、次へ正しくつなぐことは、組織においても別の仕事である。
関連する章句
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