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神皇正統記 / 巻五 第七十七代 後白河院

第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四[の]子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しまし〳〵ぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給べかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をゝきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。

書き下し

第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四の子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しましましぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給べかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をゝきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。

現代語訳

第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽天皇の第四の子である。崇徳院と同じ母の弟である。近衛天皇は鳥羽上皇が特に可愛がった御子であったが、早くお亡くなりになった。崇徳院の御子の重仁親王が位を継がれるはずであったが、もともと御仲がよくなかったので沙汰やみになった。上皇は思い悩まれたが、この帝をお立てになった。立太子の儀もなく、すぐに位に即かれた。今はこの帝の御子孫だけが皇統を継いでおられるので、しかるべき天命であったと思われる。乙亥の年(1155年)に即位し、丙子に改元した。年号を保元という。鳥羽院がお隠れになったので、天下を治められた。左大臣頼長と申したのは、知足院入道関白忠実の次男である。法性寺関白忠通の大臣がこの大臣の兄で、和漢の学才が高く、長く摂関として仕えておられた。この大臣(頼長)も漢学の才は高いと聞こえていたが、生まれつきの性格がよくなかったという。父に愛された子であったので、無理を通して願い受けられたので、関白を差しおいて藤原氏の氏長者になり、内覧の宣旨をこうむった。氏長者が他の人に移ることは、摂政・関白の制が始まってからは例がない。

解説

保元の乱の前段である。親房はまず後白河が位に即いた事情を、崇徳の子重仁が退けられた経緯とともに書き、「今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命」と結ぶ。偶然の選択に見えたものが、後から見れば正統の筋になった。親房の天命観は、結果として皇統が続いたところに理を見出すものである。次に藤原頼長を描く。兄忠通は穏やかな能吏、頼長は学才は高いが「本性あしく」、父忠実の寵愛を頼りに関白を差しおいて氏長者と内覧を得た。摂関制が始まって以来の異例である。親房は才の高さと人柄を分けて評価し、才があっても順を乱す者は乱の種になると見ている。能力の評価と人事の順序をどう両立させるかという問いは、今の組織にもそのまま通じる。

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