神皇正統記 / 巻五 第七十三代 堀河院
第七十三代、第四十世、堀河院。諱は善仁、白河第二の子。御母中宮賢子、右大臣源顕房の女、関白師実のおとゞの猶子也。丙寅の年即位、丁卯に改元。このみかど和漢の才まし〳〵けり。ことに管絃・郢曲・舞楽の方あきらかにまします。神楽の曲などは今の世まで地下につたへたるもこの御説也。天下を治給こと二十一年。二十九歳おまし〳〵き。
書き下し
第七十三代、第四十世、堀河院。諱は善仁、白河第二の子。御母中宮賢子、右大臣源顕房の女、関白師実のおとゞの猶子也。丙寅の年即位、丁卯に改元。このみかど和漢の才ましましけり。ことに管絃・郢曲・舞楽の方あきらかにまします。神楽の曲などは今の世まで地下につたへたるもこの御説也。天下を治給こと二十一年。二十九歳おましましき。
現代語訳
第七十三代、第四十世、堀河院。諱は善仁、白河天皇の第二の子である。御母は中宮賢子で、右大臣源顕房の娘、関白師実の大臣の養女である。丙寅の年(1086年)に即位し、丁卯に改元した。この帝は和漢の学才がおありであった。とりわけ管絃・郢曲(今様などの歌謡)・舞楽の方面に通じておられた。神楽の曲などは、今の世まで地下(殿上に上がれない楽人たち)に伝わっているものも、この帝の御説である。天下を治められたこと二十一年。二十九歳であられた。
解説
短い記事だが、親房が何を記し何を記さないかがよく見える段である。堀河天皇の在位二十一年は、ほぼ父白河院の院政のもとにあった。親房は政治のことを一言も書かず、代わりに和漢の才と、管絃・郢曲・舞楽への深い通じ方、そして神楽の曲が地下の楽人にまで伝わったことを記す。実権を持たなかった天皇を、政治の業績ではなく文化の継承によって評価しているわけである。「第四十世」と世の数が進んでいることにも注意したい。この書は代(即位の順)と世(父から子への正統の伝わり)を分けて数え、堀河は白河の子として正統の線上にある。権力の所在と正統の所在は別であり、親房は後者を記録の骨組みにしている。権限を持たない立場の人が何を残せるか、という問いへの一つの答えでもある。
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