玉勝間 / 十三の巻 九条廃帝
九條ノ廢帝と申シ奉るは、順德天皇の第一の皇子にて、御母は中宮藤原ノ立子、東一條ノ院と申シ、後京極ノ攝政良經公の御女なり。帝建保六年十月十日に降誕、御諱は懷成と申す。同年十一月廿一日に、親王宣下、廿六日に、皇太子に立チ給ひ、承久三年四月廿日に、御年四にて受禪有、然るところに、東の賊北條、義時、いたく荒びて、ゆゆしき世の亂れおこりて、かの族泰時時房など云ふ賊ども、おしのぼり、同き六月に、京にみだれ入って、いともかしこく、三所の天皇たちを、遠所に遷し奉り、此ノ新帝をも、おしおろし奉りぬるは、あさましなども世の常の事をこそ云へ、云はむかたも無き、逆事のまがことにぞ有ける。かくて此帝は其七月九日に、位を讓らせ給ひて、ひそかにて九條、院に渡御有リ。それより此院に、御母女院と御同居ましまして、文曆元年五月廿日に崩御、御年十七にぞおはしましける。いまだ御元服の儀もおはしまさざりき。受禪有しかども、わづかに四月が程に、おりさせ給ひて、いまだ卽位の儀も行はれざりしかば、皇代の御數にも、いらせ給はざるなり。いづれの地にか葬奉りけむ、御陵の在ッ處も聞えぬは、いともかしこき御事になむ。
新字:九条ノ廃帝と申シ奉るは、順徳天皇の第一の皇子にて、御母は中宮藤原ノ立子、東一条ノ院と申シ、後京極ノ摂政良経公の御女なり。帝建保六年十月十日に降誕、御諱は懐成と申す。同年十一月廿一日に、親王宣下、廿六日に、皇太子に立チ給ひ、承久三年四月廿日に、御年四にて受禅有、然るところに、東の賊北条、義時、いたく荒びて、ゆゆしき世の乱れおこりて、かの族泰時時房など云ふ賊ども、おしのぼり、同き六月に、京にみだれ入って、いともかしこく、三所の天皇たちを、遠所に遷し奉り、此ノ新帝をも、おしおろし奉りぬるは、あさましなども世の常の事をこそ云へ、云はむかたも無き、逆事のまがことにぞ有ける。かくて此帝は其七月九日に、位を譲らせ給ひて、ひそかにて九条、院に渡御有リ。それより此院に、御母女院と御同居ましまして、文暦元年五月廿日に崩御、御年十七にぞおはしましける。いまだ御元服の儀もおはしまさざりき。受禅有しかども、わづかに四月が程に、おりさせ給ひて、いまだ即位の儀も行はれざりしかば、皇代の御数にも、いらせ給はざるなり。いづれの地にか葬奉りけむ、御陵の在ッ処も聞えぬは、いともかしこき御事になむ。
書き下し
九条の廃帝と申し奉るは、順徳天皇の第一の皇子にて、御母は中宮藤原の立子、東一条の院と申し、後京極の摂政良経公の御女なり。帝建保六年十月十日に降誕、御諱は懐成と申す。同年十一月廿一日に、親王宣下、廿六日に、皇太子に立ち給い、承久三年四月廿日に、御年四つにて受禅有り、然るところに、東の賊北条義時、いたく荒びて、ゆゆしき世の乱れおこりて、かの族泰時時房など云う賊ども、おしのぼり、同じき六月に、京にみだれ入って、いともかしこく、三所の天皇たちを、遠所に遷し奉り、この新帝をも、おしおろし奉りぬるは、あさましなども世の常の事をこそ云え、云わむかたも無き、逆事のまがことにぞ有りける。かくてこの帝はその七月九日に、位を譲らせ給いて、ひそかにて九条院に渡御有り。それよりこの院に、御母女院と御同居ましまして、文暦元年五月廿日に崩御、御年十七にぞおわしましける。いまだ御元服の儀もおわしまさざりき。受禅有りしかども、わずかに四月が程に、おりさせ給いて、いまだ即位の儀も行われざりしかば、皇代の御数にも、いらせ給わざるなり。いずれの地にか葬り奉りけむ、御陵の在る処も聞こえぬは、いともかしこき御事になむ。
現代語訳
九条の廃帝と申し上げるのは、順徳天皇の第一皇子で、御母は中宮藤原立子、東一条院と申し、後京極摂政藤原良経公の御娘である。帝は建保六年十月十日にお生まれになり、御名は懐成と申す。同年十一月二十一日に親王の宣下があり、二十六日に皇太子にお立ちになり、承久三年四月二十日、御年四歳で位をお受けになった。ところが、東国の賊である北条義時がひどく荒れ狂って、恐ろしい世の乱れが起こり、その一族の泰時・時房などという賊どもが攻め上って、同じ年の六月に京に乱入し、まことに畏れ多くも、三所の上皇(後鳥羽・土御門・順徳)を遠い所にお移し申し上げ、この新帝をも無理に退位させ申し上げたのは、「あさましい」などというのは世の常のことについて言う言葉であって、言いようもない、道に背いた禍々しい出来事であった。こうしてこの帝はその年の七月九日に位をお譲りになって、ひっそりと九条院にお移りになった。それからこの院に、御母の女院とご一緒にお住まいになり、文暦元年五月二十日に崩御、御年十七歳でいらっしゃった。まだ御元服の儀式もなさっていなかった。位はお受けになったけれども、わずか四か月ほどで退かれ、まだ即位の儀式も行われなかったので、歴代天皇の数にもお入りにならないのである。どこの地に葬り申し上げたのか、御陵のある所も伝わっていないのは、まことに畏れ多いことである。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 廃帝(仲恭天皇)廃帝。諱は懐成、順徳の太子。御母東一条院、藤原充子、故摂政太政大臣良経女也。承久三年春の比より上皇おぼしめしたつことありければ、にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも一御心にせさせ給はん御はかりことにや、新主に譲位ありしかど、即位登壇までもなくて軍やぶれしかば、外舅摂政道家の大臣の九条の第へのがれさせ給。三種神器をば閑院の内裏にすておかれにき。譲位の後七十七け日のあひだ、しばらく神器を伝給しかども、日嗣にはくはへたてまつらず。飯豊の天皇の例になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。
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『玉勝間』十三の巻 九条廃帝御子は、崩御ありし年に、法印性慶の女の腹に、姫宮一ところ生まれさせ給う。義子内親王と申す。弘長元年三月八日、御とし廿八にて、院号こうぶり給いて、和徳門院と申しき。
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『神皇正統記』巻五 第七十九代 六条院第七十九代、六条院。諱は順仁、二条の太子。御母大蔵少輔伊岐兼盛が女也乙酉の年即位、丙戌に改元。天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給しが、二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世をはやくしましましき。
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『神皇正統記』巻五 廃帝(仲恭天皇)〜第八十五代 後堀河院つひにしては、継体の道も正路にかへり、御子孫の世に一統の聖運をひらかれぬれば、御本意の末達せぬにはあらざれど、一旦もしづませ給しこそ口惜はべれ。第八十五代、後堀河院。諱は茂仁、二品守貞親王第三の子。御母北白河院、藤原陳子、入道中納言基家の女なり。入道親王は高倉第三の御子、後鳥羽同胞の御兄、後白河の御えらびにもれ給し御こと也。承久にことありて、後鳥羽の御ながれのほか、この御子ならでは皇胤ましまさず。よりて此孫王を天位につけたてまつる。入道親王尊号ありて太上皇と申て、世をしらせ給。追号の例は文武の御父草壁の太子を長岡の天皇と申、淡路の帝御父舎人親王を尽敬天皇と申、光仁の御父施基の王子を、田原天皇と申。早良の廃太子は怨霊をやすめられんとて崇道天皇の号をおくらる。院号ありしことは小一条院ぞましける。此天皇辛巳年即位、壬午に改元。天下を治給こと十一年。太子に譲て尊号例のごとし。しばらく政をしらせ給しが、二十一歳にて世をはやくしおましましき。
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『神皇正統記』巻五 第八十三代 土御門院第八十三代、第四十五世、土御門院。諱は為仁、後鳥羽の太子。御母承明門院、源在子、内大臣通親の女也。父の御門の例にて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午の年即位、己未に改元。天下を治給こと十二年。太弟にゆづりて尊号例の如し。此御門まさしき正嫡にて御心ばへもたゞしくきこえ給しに、上皇鍾愛にうつされましけるにや、ほどなく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成にき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給ければにや、さまざまいさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石ともにこがれて、阿波国にてかくれさせ給。三十七歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第八十六代 四条院第八十六代、四条院。諱は秀仁、後堀河の太子。御母藻壁門院、藤原の竴子、摂政左大臣道家女也。壬辰の年即位、癸巳に改元、例のごとし。一とせばかり有て、上皇かくれ給しかば、外祖にて道家のおとゞ王室の権をとりて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経も此大臣の胤子なれば、文武一にて権勢おはしけるとぞ。天下を治給こと十年。俄に世をはやくし給。十二歳おましましき。
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