神皇正統記 / 巻五 第八十二代 後鳥羽院
あらゆる庄園郷保に地頭を補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前右兵衛佐なりしが、義仲追討の賞に越階して正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二位に叙す。建久の初にはじめて京上して、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりに辞申けれど、叡慮によりて朝奨ありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉の館になんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき。平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗と云上人すゝめたてければ、公家にも委任せられ、頼朝もふかく随喜してほどなく再興す。供養の儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京上しけり。かつは結縁のため、かつは警固のためなりき。法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久に、ことありて御出家、隠岐国にてかくれ給ぬ。六十一歳おまし〳〵き。
書き下し
あらゆる庄園郷保に地頭を補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前右兵衛佐なりしが、義仲追討の賞に越階して正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二位に叙す。建久の初にはじめて京上して、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりに辞申けれど、叡慮によりて朝奨ありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉の館になんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき。平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗と云上人すゝめたてければ、公家にも委任せられ、頼朝もふかく随喜してほどなく再興す。供養の儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京上しけり。かつは結縁のため、かつは警固のためなりき。法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久に、ことありて御出家、隠岐国にてかくれ給ぬ。六十一歳おましましき。
現代語訳
あらゆる荘園・郷・保に地頭を置いたので、本所(荘園領主)はないも同然になってしまった。頼朝は従五位下の前右兵衛佐であったが、義仲追討の賞として位階を飛び越えて正四位下に叙せられ、平氏追討の賞としてまた位階を飛び越えて従二位に叙せられた。建久の初めに初めて京へ上り、すぐに一度に権大納言に任じられた。また右近衛大将を兼ねた。頼朝はしきりに辞退申したけれども、帝のお考えによって朝廷からの褒賞があったという。ほどなく辞退して、もとの鎌倉の館へ下った。その後、征夷大将軍に任じられた。それから天下のことは東国の思うままになってしまった。平氏の乱で奈良の東大寺・興福寺が焼けたのを、東大寺は俊乗という上人が勧進して建て直したので、朝廷からも任せられ、頼朝も深く喜んで、ほどなく再興した。落慶供養の儀式を古い例を尋ねて行われたのは、めったにないことであろう。頼朝も重ねて京へ上った。一つには結縁のため、一つには警固のためであった。法皇がお隠れになって、主上(後鳥羽天皇)が世を治められた。すべて天下を治められたこと十五年で、皇太子に位を譲り、尊号は例のとおりであった。院中でまた二十余年治められたが、承久の年に事があって御出家し、隠岐国でお隠れになった。六十一歳であられた。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻五 徳政なくして頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下を掌にせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。況や其跡たえて後室の尼公陪臣の義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云も一往いひなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道のふるきすがたやうやうおとろへ、後白河の御時兵革おこりて姦臣世をみだる。天下の民ほとんど塗炭におちにき。頼朝一臂をふるひて其乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もをさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとはきこえず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがへさるべき。
-
『神皇正統記』巻五 守護と地頭かくて平氏滅亡してしかば、天下もとのごとく君の御まゝなるべきかとおぼえしに、頼朝勲功まことにためしなかりければ、みづからも権をほしきまゝにす。君も又うちまかせられにければ、王家の権はいよいよおとろへにき。諸国に守護をゝきて、国司の威をおさへしかば、吏務と云こと名ばかりに成ぬ。
-
『神皇正統記』巻五 第八十四代 順徳院第八十四代、順徳院。諱は守成、後鳥羽第三の子。御母修明門院、藤原の重子、贈左大臣範季の女也。庚午の年即位、辛未に改元。此御時征夷大将軍頼朝の次郎実朝、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督頼家が子に、公暁と云ける法師にころされぬ。又継人なくて頼朝が跡はながくたえにき。頼朝が後室に従二位平政子とて、時政と云ものゝ女也し、東国のことをばおこなひき。其弟義時兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申て、あふぎ奉るべきよし奏しけれど、不許にや有けん、九条摂政道家のおとゞは頼朝の時より外戚につゞきてよしみおはしければ、其子をくだして扶持し申ける。大方のことは義時がまゝになりにき。天下を治給こと十一年。譲国ありしが、事みだれて、佐渡国にうつされ給。四十六歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院其後将門がみだれに右衛門督忠文朝臣征東将軍を兼て節刀を給しよりこのかた久くたえて任ぜられず。義仲ぞ初てなりにける。あまりなることおほくて、上皇御いきどほりのゆゑにや、近臣の中に軍をおこし対治せんとせしに事不成して中々あさましき事なんいできにし。東国の頼朝、弟範頼・義経等をさしのぼせしかば、義仲はやがて滅ぬ。さてそれより西国へむかひて、平氏をばたひらげしなり。天命きはまりぬれば、巨猾もほろびやすし。人民のやすからぬことは時の災難なれば、神も力およばせ給はぬにや。
-
『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後の例にはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたひらげ、二十余年の御いきどほりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見の命の中州をしづめ、皇極の御宇に大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家をまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上の時、大納言大将に任ぜられしをば、かたくいなみ申けるをゝしてなされにけり。公私のわざはひにや侍けん。その子は彼があとなれば、大臣大将になりてやがてほろびぬ。更にあとゝ云物もなし。天意にはたがひけりとみえたり。君もかゝるためしをはじめ給しによりて、大功なきものまでも皆かゝるべきことゝ思あへり。頼朝はわが身かゝればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや。義経五位の検非違使にてやみぬ。範頼が三河守なりしは、頼朝拝賀の日地下の前駈にめしくはへたり。おごる心みえければにや、この両弟をもつひにうしなひにき。
-
『神皇正統記』巻五 第八十代 高倉院頼政もほろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝々臣が子頼朝平治の乱に死罪を申なだむる人ありて、伊豆国に配流せられて、おほくの年をおくりしが、以仁の王の密旨をうけ給、院よりも忍て仰つかはす道ありければ、東国をすゝめて義兵をおこしぬ。清盛いよいよ悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給。俄に避位のことありしも世をいとはせましましけるゆゑとぞ。天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめ申神なりければ、安芸の厳嶋になむまゐらせ給ける。此御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふかゝりき。管絃のかたもすぐれておはしましけり。尊号ありてほどなく世をはやくし給。二十一歳おましましき。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る