神皇正統記 / 巻五 第七十五代 崇徳院
第七十五代、崇徳院。諱は顕仁、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子、入道大納言公実の女也。癸卯の年即位、甲辰に改元。戊申年、宋欽宗皇帝靖康三年にあたる。宋の政みだれしより北狄の金国起て上皇徽宗並に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりて杭州と云所に都をたてゝ行在所とす。南渡と云はこれ也。此天皇天下を治給こと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給き。保元に、事ありて御出家ありしが、讚岐国にうつされ給。四十六歳おまし〳〵き。
新字:第七十五代、崇徳院。諱は顕仁、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子、入道大納言公実の女也。癸卯の年即位、甲辰に改元。戊申年、宋欽宗皇帝靖康三年にあたる。宋の政みだれしより北狄の金国起て上皇徽宗並に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりて杭州と云所に都をたてゝ行在所とす。南渡と云はこれ也。此天皇天下を治給こと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給き。保元に、事ありて御出家ありしが、讃岐国にうつされ給。四十六歳おまし〳〵き。
書き下し
第七十五代、崇徳院。諱は顕仁、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子、入道大納言公実の女也。癸卯の年即位、甲辰に改元。戊申年、宋欽宗皇帝靖康三年にあたる。宋の政みだれしより北狄の金国起て上皇徽宗並に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりて杭州と云所に都をたてゝ行在所とす。南渡と云はこれ也。此天皇天下を治給こと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給き。保元に、事ありて御出家ありしが、讃岐国にうつされ給。四十六歳おましましき。
現代語訳
第七十五代、崇徳院。諱は顕仁、鳥羽天皇の第二の子である。御母は中宮藤原璋子で、入道大納言公実の娘である。癸卯の年(1123年)に即位し、甲辰に改元した。戊申の年は、宋の欽宗皇帝の靖康三年にあたる。宋の政が乱れてから、北方の異民族の金国が起こり、上皇の徽宗と欽宗を捕らえて北へ帰った。皇弟の高宗が長江を渡って杭州という所に都を建てて行在所(仮の都)とした。南渡というのはこれである。この天皇が天下を治められたこと十八年。上皇(鳥羽院)との御仲がよくなくて、位を退かれた。保元の年に事件があって御出家なさったが、讃岐国に移された。四十六歳であられた。
解説
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