神皇正統記 / 巻五 第八十八代 後深草院
第八十八代、後深草院。諱は久仁、後嵯峨第二の子。御母大宮院、藤原の姞子、太政大臣実氏の女也。丙午の年四歳にて即位、丁未に改元。天下を治給こと十三年。后腹の長子にてまし〳〵しかども、御病おはしましければ、同母の御弟恒仁親王を太子にたてゝ、譲国、尊号例のごとし。伏見御代にぞしばらく政をしらせ給しが、御出家ありて政務をば主上に譲り申させ給。五十八歳おまし〳〵き。
書き下し
第八十八代、後深草院。諱は久仁、後嵯峨第二の子。御母大宮院、藤原の姞子、太政大臣実氏の女也。丙午の年四歳にて即位、丁未に改元。天下を治給こと十三年。后腹の長子にてましまししかども、御病おはしましければ、同母の御弟恒仁親王を太子にたてゝ、譲国、尊号例のごとし。伏見御代にぞしばらく政をしらせ給しが、御出家ありて政務をば主上に譲り申させ給。五十八歳おましましき。
現代語訳
第八十八代、後深草院。諱は久仁、後嵯峨天皇の第二の子である。御母は大宮院、藤原姞子で、太政大臣実氏の娘である。丙午の年(1246年)に四歳で即位し、丁未に改元した。天下を治められたこと十三年。皇后から生まれた長子であられたけれども、御病気がおありだったので、同じ母の弟の恒仁親王を皇太子に立てて位を譲り、尊号は例のとおりであった。伏見天皇の御代にしばらく政をおとりになったが、御出家なさって政務は主上にお譲りになった。五十八歳であられた。
解説
持明院統の祖となる後深草院の記事である。后腹の長子でありながら病のために弟の恒仁(亀山天皇)に位を譲った、と親房は書く。そしてこの天皇には世の数を付していない。後深草の子孫はのちに北朝の天皇となる。南朝の正統を説く親房にとって、後深草は正統の線の外にある。一方で、子の伏見天皇の代にしばらく院政を行ったこと、出家して政務を主上に譲ったことは淡々と記し、けなす言葉はない。「代」には数えて即位の事実を認め、「世」には数えずに正統の筋から外す。この書の二つの数え方が、南北朝の分裂の起点で最もはっきり働いている。長子相続の原則が病という事情で崩れたとき、その例外が後に大きな対立を生む。例外を認めるときの定め方が、後々まで影響することを示す段である。
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