神皇正統記 / 巻五 第八十七代 後嵯峨院
つひに継体の主として此御すゑならぬはましまさず。壬寅の年即位、癸卯の春改元。御身をつゝしみ給ければにや、天下を治給こと四年。太子をさなくまし〳〵しかども譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ給、御出家の後もかはらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おまし〳〵き。
書き下し
つひに継体の主として此御すゑならぬはましまさず。壬寅の年即位、癸卯の春改元。御身をつゝしみ給ければにや、天下を治給こと四年。太子をさなくましまししかども譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ給、御出家の後もかはらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おましましき。
現代語訳
ついに皇統を継ぐ主として、この御子孫でない方はおられない。壬寅の年(1242年)に即位し、癸卯の春に改元した。御身をつつしまれたからであろうか、天下を治められたこと四年。皇太子は幼くおられたけれども位を譲られた。尊号は例のとおりである。院中で世を治められ、御出家の後も変わらず、二十六年に及んだので、白河・鳥羽よりこのかたでは、穏やかでめでたい御代であったろう。五十三歳であられた。
解説
後嵯峨院の治世を締めくくる短い段である。冒頭の「つひに継体の主として此御すゑならぬはましまさず」が要点で、以後の天皇はすべて後嵯峨の子孫である、と確認している。承久の乱で外された土御門院の筋が、ここで皇統の本流となった。在位は四年と短く、幼い皇太子に早く位を譲り、院として二十六年政を行った。親房はこれを「白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代」と評する。院政そのものを批判的に見てきた親房が、後嵯峨の院政は穏やかだったと認めているのである。北条泰時・時頼の時代と重なり、朝廷と幕府の関係が安定していたことが背景にある。ただしこの院が後継を明確に定めなかったことが、次の両統迭立の火種になる。穏やかな治世の後に何を残すかという問いが、次の段で浮かび上がる。
関連する章句
-
『神皇正統記』巻五 第八十七代 後嵯峨院第八十七代、第四十六世、後嵯峨院。諱は邦仁、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子、贈左大臣通宗の女、内大臣通親の孫女なり。承久のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方は父の院にも御傍親、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養し申てかくしおきたてまつりき。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼になり給て、御祖母承明門院になむうつろひましましける。二十二歳の御年、春正月十日四条院俄に晏駕、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御方の外家におはせしかば、此御流を天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時はからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかくきこえさせ給しかば、天照太神の冥慮に代てはからひ申けるもことわり也。
-
『神皇正統記』巻五 第八十九代 亀山院第八十九代、第四十七世、亀山院。諱は恒仁、後深草院同母の御弟也。己未の年即位、庚申に改元。此天皇を継体とおぼしめしおきてけるにや、后腹に皇子うまれ給しを後嵯峨とりやしなひまして、いつしか太子に立給ぬ。後深草の御子もさき立て生給しかどもひきこされましにき。後嵯峨かくれさせ給てのち、兄弟の御あはひにあらそはせ給ことありければ、関東より母儀大宮院にたづね申けるに、先院の御素意は当今にましますよしをおほせつかはされければ、ことさだまりて、禁中にて政務せさせ給。天下を治給こと十五年。太子にゆづりて、尊号れいのごとし。院中にても十三年まで世をしらせ給。事あらたまりにし後、御出家。五十七歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻五 第八十八代 後深草院第八十八代、後深草院。諱は久仁、後嵯峨第二の子。御母大宮院、藤原の姞子、太政大臣実氏の女也。丙午の年四歳にて即位、丁未に改元。天下を治給こと十三年。后腹の長子にてましまししかども、御病おはしましければ、同母の御弟恒仁親王を太子にたてゝ、譲国、尊号例のごとし。伏見御代にぞしばらく政をしらせ給しが、御出家ありて政務をば主上に譲り申させ給。五十八歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻五 第八十三代 土御門院第八十三代、第四十五世、土御門院。諱は為仁、後鳥羽の太子。御母承明門院、源在子、内大臣通親の女也。父の御門の例にて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午の年即位、己未に改元。天下を治給こと十二年。太弟にゆづりて尊号例の如し。此御門まさしき正嫡にて御心ばへもたゞしくきこえ給しに、上皇鍾愛にうつされましけるにや、ほどなく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成にき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給ければにや、さまざまいさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石ともにこがれて、阿波国にてかくれさせ給。三十七歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻五 第九十代 後宇多院嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立てぞおこなはせ給し。其後、後醍醐の御門位につきましまししかば、又しばらく世をしらせ給て、三とせばかり有てゆづりましましき。
-
『神皇正統記』巻五 第八十七代 後嵯峨院これを思もいれず、あるにまかせて欲をほしきまゝにし、私をさきとして公をわするゝ心あるならば、世に久きことわりもはべらじ。いはんや国柄をとる仁にあたり、兵権をあづかる人として、正路をふまざらんにおきて、いかで其運をまたくすべき。泰時が昔を思には、よくまことある所有けむかし。子孫はさ程の心あらじなれど、かたくしける法のまゝにおこなひければ、およばずながら世をもかさねしにこそ。異朝のことは乱逆にして紀なきためしおほければ、例とするにたらず。我国は神明の誓いちじるくして、上下の分さだまれり。しかも善悪の報あきらかに、困果のことわりむなしからず。かつはとほからぬことゞもなれば、近代の得失をみて将来の鑑誡とせらるべきなり。抑此天皇正路にかへりて、日嗣をうけ給し、さきだちてさまざまの奇瑞ありき。又土御門院阿波国にて告文をかゝせまして、石清水の八幡宮に啓白せさせ給ける、其御本懐すゑとほりにしかば、さまざまの御願をはたされしもあはれなる御こと也。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る