神皇正統記 / 巻五 第八十一代 安徳天皇
第八十一代、安徳天皇。諱は言仁、高倉第一の子。御母中宮平徳子、太政大臣清盛女他。庚子の年即位、辛丑に改元。法皇猶世をしらせ給。平氏はいよ〳〵おごりをなし、諸国はすでにみだれぬ。都をさへうつすべしとて摂津国福原とて清盛すむ所のありしに行幸せさせ申ける。法皇・上皇もおなじくうつしたてまつる。人の恨おほくきこえければにやかへし奉る。いくほどなく、清盛かくれて次男宗盛其あとをつぎぬ。世の乱をもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にもおよばざりけるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍すでにこはく成て、平氏の軍所々にて利をうしなひけるとぞ。法皇忍て比叡山にのぼらせ給。平氏力をおとし、主上をすゝめ申て西海に没落す。中みとせばかりありて、平氏こと〴〵く滅亡。清盛が後室従二位平時子と云し人此君をいだき奉りて、神璽をふところにし、宝剣をこしにさしはさみ、海中にいりぬ。あさましかりし乱世なり。天下を治給こと三年。八歳おまし〳〵き。遺詔等のさたなければ、天皇と称し申なり。
書き下し
第八十一代、安徳天皇。諱は言仁、高倉第一の子。御母中宮平徳子、太政大臣清盛女他。庚子の年即位、辛丑に改元。法皇猶世をしらせ給。平氏はいよいよおごりをなし、諸国はすでにみだれぬ。都をさへうつすべしとて摂津国福原とて清盛すむ所のありしに行幸せさせ申ける。法皇・上皇もおなじくうつしたてまつる。人の恨おほくきこえければにやかへし奉る。いくほどなく、清盛かくれて次男宗盛其あとをつぎぬ。世の乱をもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にもおよばざりけるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍すでにこはく成て、平氏の軍所々にて利をうしなひけるとぞ。法皇忍て比叡山にのぼらせ給。平氏力をおとし、主上をすゝめ申て西海に没落す。中みとせばかりありて、平氏ことごとく滅亡。清盛が後室従二位平時子と云し人此君をいだき奉りて、神璽をふところにし、宝剣をこしにさしはさみ、海中にいりぬ。あさましかりし乱世なり。天下を治給こと三年。八歳おましましき。遺詔等のさたなければ、天皇と称し申なり。
現代語訳
第八十一代、安徳天皇。諱は言仁、高倉天皇の第一の子である。御母は中宮平徳子で、太政大臣清盛の娘である。庚子の年(1180年)に即位し、辛丑に改元した。法皇(後白河院)がなお世を治められた。平氏はいよいよ驕りをきわめ、諸国はすでに乱れていた。都まで遷すといって、摂津国の福原という、清盛の住む所があったところへ行幸させ申した。法皇と上皇(高倉院)も同じようにお移し申した。人々の恨みが多く聞こえたからであろうか、都へお返し申した。まもなく清盛が亡くなって、次男の宗盛がその跡を継いだ。世の乱れも顧みず、内大臣に任じられた。生まれつき父にも兄にも及ばなかったのだろうか、威望もいつの間にか衰え、東国の軍勢はすでに強くなって、平氏の軍はあちこちで敗れたという。法皇はひそかに比叡山にお上りになった。平氏は力を失い、主上をおすすめ申して西海へ落ちていった。中二年ほどあって、平氏はことごとく滅亡した。清盛の後室である従二位平時子という人が、この君をお抱き申して、神璽を懐に入れ、宝剣を腰に差して海中に入った。嘆かわしい乱世である。天下を治められたこと三年。八歳であられた。遺詔などの沙汰がなかったので、天皇とお呼び申すのである。
解説
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