神皇正統記 / 巻五 第七十四代 鳥羽院
第七十四代、第四十一世、鳥羽院。諱は宗仁、堀川第一の子。御母贈皇太后藤原茨子、贈太政大臣実季の女也。丁亥の年即位、戊子に改元。天下を治給こと十六年。太子に譲て尊号あり。白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸にもおなじ御車にてありき。雪見の御幸の日御烏帽子直衣にふか沓をめし、御馬にて本院の御車のさきにまし〳〵ける、世にめづらかなる事なればこぞりてみ奉りき。昔弘仁の上皇、嵯峨の院にうつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城の内をもとほらせ給へりと云ことのみえ侍し、かやうの例にや有けん。御容儀めでたくまし〳〵ければ、きらをもこのませ給けるにや、装束のこはくなり烏帽子のひたひなんど云ことも其比より出来にき。花園の有仁のおとど又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風になりにけるとぞ申める。白河院かくれ給て後、政をしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服をきさせ給けり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申侍也。五十四歳おまし〳〵き。
書き下し
第七十四代、第四十一世、鳥羽院。諱は宗仁、堀川第一の子。御母贈皇太后藤原茨子、贈太政大臣実季の女也。丁亥の年即位、戊子に改元。天下を治給こと十六年。太子に譲て尊号あり。白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸にもおなじ御車にてありき。雪見の御幸の日御烏帽子直衣にふか沓をめし、御馬にて本院の御車のさきにましましける、世にめづらかなる事なればこぞりてみ奉りき。昔弘仁の上皇、嵯峨の院にうつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城の内をもとほらせ給へりと云ことのみえ侍し、かやうの例にや有けん。御容儀めでたくましましければ、きらをもこのませ給けるにや、装束のこはくなり烏帽子のひたひなんど云ことも其比より出来にき。花園の有仁のおとど又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風になりにけるとぞ申める。白河院かくれ給て後、政をしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服をきさせ給けり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申侍也。五十四歳おましましき。
現代語訳
第七十四代、第四十一世、鳥羽院。諱は宗仁、堀河天皇の第一の子である。御母は贈皇太后藤原茨子で、贈太政大臣実季の娘である。丁亥の年(1107年)に即位し、戊子に改元した。天下を治められたこと十六年。皇太子に位を譲って尊号を受けられた。白河院が世を治めておられたので、新院と呼ばれて、あちこちへの御幸にも同じ御車でお出かけになった。雪見の御幸の日には、烏帽子と直衣にふか沓をお召しになり、御馬に乗って本院(白河院)の御車の先に立たれたのが、世に珍しいことだったので、人々はこぞって拝見した。昔、弘仁の上皇(嵯峨天皇)が嵯峨院にお移りになった日だったろうか、御馬で都からお出になり宮城の内をお通りになったということが書物に見えるので、このような例にならったのであろうか。お姿が立派であられたので、華やかな装いもお好みになったのだろうか、装束がこわばった仕立てになり、烏帽子の額などということもそのころから出てきた。花園の有仁の大臣もまた容姿の美しい人で、院と示し合わせて、上下が同じ風俗になったと申している。白河院がお隠れになって後、政をおとりになった。御孫ではあるが御子の扱いだったので、重い喪服をお召しになった。これも院中で二十余年、その間に御出家なさったけれども、なお世を治められた。されば院政の古い例としては、白河・鳥羽の二代を申すのである。五十四歳であられた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第七十二代 白河院執柄世をおこなはれしかど、宣旨・官符にてこそ天下の事は施行せられしに、此御時より院宣・庁御下文をおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれるすがたなるべきにや。又城南の鳥羽と云所に離宮をたて、土木の大なる営ありき。昔はおり位の君は朱雀院にまします。これを後院と云ふ。又冷然院にもおはしけるに、彼所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿をもちて上皇御坐の本所とはさだめられにけり。御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ崇徳の御在位まで五十余年世をしらせ給しかば、院中の礼なんど云こともこれよりぞさだまりける。すべて御心のまゝに久くたもたせ給し御代也。七十七歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第七十二代 白河院第七十二代、第三十九世、白河院。諱は貞仁、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子、贈太政大臣能信の女、実は中納言公成の女也。壬子年即位、甲寅に改元。古のあとをおこされて野の行幸なんどもあり。又白河に法勝寺を立、九重の塔婆なども昔の御願の寺々にもこえ、ためしなきほどぞつくりとゝのへさせ給ける。このゝち代ごとにうちつゞき御願寺を立られしを、造寺熾盛のそしり有き。造作のために諸国の重任なんど云ことおほくなりて、受領の功課もたゞしからず、封戸・庄園あまたよせおかれて、まことに国の費とこそ成侍にしか。天下を治給こと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世の政をはじめて院中にてしらせ給。後に出家せさせ給ても猶そのまゝにて御一期はすごさせましましき。おりゐにて世をしらせ給こと昔はなかりしなり。孝謙脱屣の後にぞ廃帝は位にゐ給ばかりとみえたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給。円融の御時はやうやうしらせ給こともありしにや。
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成、高倉第四の子。御母七条の院、藤原殖子、入道修理大夫信隆女也。先帝西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通のおとゞぞ、平氏の縁にて供奉せられしかど、いさめ申輩ありけるにや、九条の大路辺よりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣ありけれど、平氏承引申さず。よりて太上法皇の詔にて此天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨までもなし。先皇太子とし、即受禅の儀あり。翌年甲辰にあたる年四月に改元、七月に即位。此同胞に高倉の第三の御子ましまししかども、法皇此君をえらび定申給けるとぞ。先帝三種の神器をあひぐせさせ給しゆゑに践祚の初の違例に侍しかど、法皇国の本主にて正統の位を伝へまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所・神璽はかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四の子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しましましぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給べかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をゝきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のごとし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖にて、六十六歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第七十三代 堀河院第七十三代、第四十世、堀河院。諱は善仁、白河第二の子。御母中宮賢子、右大臣源顕房の女、関白師実のおとゞの猶子也。丙寅の年即位、丁卯に改元。このみかど和漢の才ましましけり。ことに管絃・郢曲・舞楽の方あきらかにまします。神楽の曲などは今の世まで地下につたへたるもこの御説也。天下を治給こと二十一年。二十九歳おましましき。
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