神皇正統記 / 巻四 第六十二代 村上天皇
此時に神鏡南殿の桜にかゝらせ給けるを、小野宮の実頼のおとゞ袖にうけられたりと申ことあれど、ひが事をなん云伝侍也。応和元年辛酉年もろこしの後周滅て宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国大に乱て五姓うつりかはりて国の主たり。五季とぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。此天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おまし〳〵き。御子おほくまし〳〵し中に冷泉・円融は天位につき給しかば申におよばず。親王の中に具平親王賢才文芸のかた代々の御あとをよく相継申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人を用まし〳〵ければ、この親王昇殿し給し日、清涼殿にて作文ありしに「所貴是賢才」と云題にて韻をさぐらるゝことあり。此親王の御ためなるべし。凡諸道にあきらかに、仏法の方までくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、此御すゑのみぞいまに至まで大臣以上に至て相継侍る。
書き下し
此時に神鏡南殿の桜にかゝらせ給けるを、小野宮の実頼のおとゞ袖にうけられたりと申ことあれど、ひが事をなん云伝侍也。応和元年辛酉年もろこしの後周滅て宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国大に乱て五姓うつりかはりて国の主たり。五季とぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。此天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おましましき。御子おほくましましし中に冷泉・円融は天位につき給しかば申におよばず。親王の中に具平親王賢才文芸のかた代々の御あとをよく相継申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人を用ましましければ、この親王昇殿し給し日、清涼殿にて作文ありしに「所貴是賢才」と云題にて韻をさぐらるゝことあり。此親王の御ためなるべし。凡諸道にあきらかに、仏法の方までくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、此御すゑのみぞいまに至まで大臣以上に至て相継侍る。
現代語訳
この時に神鏡が南殿の桜にかかっておられたのを、小野宮の実頼大臣が袖で受けられたと申すことがあるが、誤ったことを言い伝えているのである。応和元年辛酉(九六一年)、中国の後周が滅んで宋の代に定まった。唐の後、五代五十五年の間、かの国は大いに乱れて、五つの姓が移り変わって国の主となった。これを五季といった。宋の代には賢主が続いて、三百二十余年まで保った。この天皇は天下を治められたこと二十一年。四十二歳まで存命であった。御子が多くおられた中で、冷泉・円融は天位に就かれたので申すまでもない。親王の中では具平親王が、賢才・文芸の面で代々の御跡をよく受け継がれた。一条天皇の御代に、万事に昔を復興し、人材を用いられたので、この親王が昇殿された日、清涼殿で詩作の会があったとき、「貴ぶ所は是れ賢才」という題で韻を探って詩を作ることがあった。この親王のためであろう。およそ諸道に明るく、仏法の方面まで暗くなかったという。昔から源氏は多かったが、この御末だけが今に至るまで大臣以上に至って相続いている。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子師房姓を給て人臣に列せられし、才芸古にはぢず、名望世に聞あり。十七歳にて納言に任じ、数十年の間朝廷の故実に練じ、大臣大将にのぼりて、懸車の齢までつかうまつらる。親王の女祇子の女王は宇治関白の室なり。仍此大臣をば彼関白の子にし給て、藤子にかはらず、春日社にもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁せられしかば、子孫もみな彼外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖の如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古をむねとし、報国の忠節をさきとする誠あるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡うたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづから衰てあとなきもあり。向後と云ふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉る中に、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。源の流も久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流一とほりにて十七代に成しめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑに余慶あるかとこそあふぎ申はべれ。
-
『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇第六十二代、第三十四世、村上天皇。諱は成明、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。丙午年即位、丁未に改元。兄弟相譲せ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ先皇のあとを継申させ給ければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を好給こともかはりまさゞりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康、漢には文・景なんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明主の伝り給し、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた天徳年中にや、はじめて内裏に炎上ありて内侍所も焼にしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規損ずることなくして分明にあらはれ出給。見奉る人、驚感せずと云ことなし。」とぞ御記にみえ侍る。
-
『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇大臣にのぼる人、能有の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝の右大臣兼大将。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を給て大臣にのぼる人、雅信の左大臣、重信の左大臣。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、高明の左大臣兼大将、兼明の左大臣。この後は皇子の姓を給ことはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣を本としるすによりてことごとくはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁の左大臣兼大将二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたまたま大臣に至てもいづれか二代と相継る。ほとほと納言以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。皇胤の貴種より出ぬる人、蔭をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに慢ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。
-
『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりの誓にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋の御流君をたすけ奉るべき器となれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらば二神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なかなか上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にも封ぜられ、将相にも任ぜられき。崇神天皇十年に始て四人の将軍を任じて四道へつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て棟梁の臣を置て武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣とす。六代の朝につかへて執政たり。此大臣も孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠氏をさかやかし、忠仁公政を摂せられしより、もはら輔佐の器として、立かへり、神代の幽契のまゝに成ぬるにや。閑院の大臣冬嗣氏の衰たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。
-
『神皇正統記』巻四 第六十六代 一条院昔もいかなるゆゑにか、昭宣公の三男にて貞信公、々々々の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条のおとゞ、東三条の三男にてこのおとゞ、みな父の立たる嫡子ならで、自然に家をつがれたり。祖神のはからはせ給へる道にこそ侍りけめ。此御代にはさるべき上達部・諸道の家々・顕密の僧までもすぐれたる人おほかりき。されば御門も「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり。」とぞ自歎ぜさせ給ける。天下を治給こと二十五年。御病の程に譲位ありて出家せさせ給。三十三歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳と云し人、政事にまじらひしを黒衣宰相といひき。梁の世に恵超と云し僧、学士の官になりき。北朝の魏の明元帝の代に法果と云僧、安城公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗の朝に道平と云人、帝と心を一にして安禄山が乱をたひらげし故に、金吾将軍になされにけり。代宗の時、天竺の不空三蔵をたふとび給あまりにや、特進試鴻臚卿をさづけらる。後に開府儀同三司粛国公とす。帰寂ありしかば司空の官をおくらる。則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おましましき。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤ましまさず。此女帝にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野の講師になしてながしくだされにき。抑此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る