神皇正統記 / 巻四 第六十二代 村上天皇
第六十二代、第三十四世、村上天皇。諱は成明、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。丙午年即位、丁未に改元。兄弟相譲せ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ先皇のあとを継申させ給ければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を好給こともかはりまさゞりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康、漢には文・景なんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明主の伝り給し、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた天徳年中にや、はじめて内裏に炎上ありて内侍所も焼にしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規損ずることなくして分明にあらはれ出給。見奉る人、驚感せずと云ことなし。」とぞ御記にみえ侍る。
書き下し
第六十二代、第三十四世、村上天皇。諱は成明、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。丙午年即位、丁未に改元。兄弟相譲せ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ先皇のあとを継申させ給ければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を好給こともかはりまさゞりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康、漢には文・景なんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明主の伝り給し、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた天徳年中にや、はじめて内裏に炎上ありて内侍所も焼にしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規損ずることなくして分明にあらはれ出給。見奉る人、驚感せずと云ことなし。」とぞ御記にみえ侍る。
現代語訳
第六十二代、第三十四世、村上天皇。諱は成明、醍醐天皇の第十四皇子で、朱雀天皇と同じ母の弟である。丙午の年(九四六年)に即位し、丁未の年に改元した。兄弟で互いに譲り合われたので、まことの禅譲の礼儀があった。この天皇は賢明の誉れが先帝の跡を継がれるにふさわしかったので、天下の安寧も延喜・延長の昔と変わらなかった。詩文や諸芸を好まれることも先帝に劣られなかった。あらゆる手本としては延喜・天暦の二代と申している。中国の賢明な王でも、二代・三代と続くのはまれであった。周では文王・武王・成王・康王、漢では文帝・景帝などを得がたいことと申していた。光孝天皇が傍系から選ばれて立たれたのに、続いて明君が伝わられたのは、わが国が中興するはずの理由があったのであろう。また皇統もただこの一流にだけ定まった。末のころ、天徳年間であろうか、初めて内裏に火災があって内侍所も焼けたが、神鏡は灰の中からお取り出し申し上げた。「円い形も損なわれることなく、はっきりと現れ出られた。拝見した人で驚き感じ入らない者はなかった」と御記(村上天皇の日記)に見えている。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇此時に神鏡南殿の桜にかゝらせ給けるを、小野宮の実頼のおとゞ袖にうけられたりと申ことあれど、ひが事をなん云伝侍也。応和元年辛酉年もろこしの後周滅て宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国大に乱て五姓うつりかはりて国の主たり。五季とぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。此天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おましましき。御子おほくましましし中に冷泉・円融は天位につき給しかば申におよばず。親王の中に具平親王賢才文芸のかた代々の御あとをよく相継申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人を用ましましければ、この親王昇殿し給し日、清涼殿にて作文ありしに「所貴是賢才」と云題にて韻をさぐらるゝことあり。此親王の御ためなるべし。凡諸道にあきらかに、仏法の方までくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、此御すゑのみぞいまに至まで大臣以上に至て相継侍る。
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子師房姓を給て人臣に列せられし、才芸古にはぢず、名望世に聞あり。十七歳にて納言に任じ、数十年の間朝廷の故実に練じ、大臣大将にのぼりて、懸車の齢までつかうまつらる。親王の女祇子の女王は宇治関白の室なり。仍此大臣をば彼関白の子にし給て、藤子にかはらず、春日社にもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁せられしかば、子孫もみな彼外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖の如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古をむねとし、報国の忠節をさきとする誠あるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡うたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづから衰てあとなきもあり。向後と云ふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉る中に、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。源の流も久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流一とほりにて十七代に成しめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑに余慶あるかとこそあふぎ申はべれ。
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『神皇正統記』巻六 第九十六代 後村上天皇第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良、後醍醐の天皇第七御子。御母准三宮、藤原の廉子。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御ことゝぞかねてよりきこえさせ給し。元弘癸酉の年、あづまの陸奥・出羽のかためにておもむかせ給。甲戌の夏、立親王、丙子の春、都にのぼらせましまして、内裏にて御元服。加冠左のおとゞなり。すなはち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給。おなじき戊寅の年春、又のぼらせ給て、芳野宮にましまししが、秋七月伊勢にこえさせ給。かさねて東征ありしかど、猶伊勢にかへりまし、己卯の年三月又芳野へいらせ給。秋八月中の五日ゆづりをうけて、天日嗣をつたへおまします。
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『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇古すら猶かゝる理にて天位を嗣給。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことゝ心えたてまつるべき也。此御代より藤氏の摂籙の家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔のみぞたゞしくつたへられにける。上は光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、下は昭宣公の子孫、天児屋の命の嫡流となり給へり。二神の御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。
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『神皇正統記』巻四 第六十四代 円融院〜第六十五代 花山院第六十四代、第三十五世、円融院。諱は守平、村上第五の子、冷泉同母の弟也。己巳年即位、庚午に改元。天下を治給こと十五年。禅譲、尊号つねの如し。翌年の程にや御出家。永延の比、寛平の例をおふて、東寺にて潅頂せさせ給。御師はすなはち寛平の御孫弟子寛朝僧正なり。三十三歳おましましき。 ○第六十五代、花山院。諱は師貞、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子、摂政太政大臣伊尹の女也。甲申年即位、乙酉に改元。天下を治給こと二年ありて、俄に発心して花山寺にて出家し給。弘徽殿の女御かくれて悲歎ましけるをりをえて、粟田関白道兼のおとゞのいまだ蔵人弁ときこえし比にや、そゝのかし申てけるとぞ。山々をめぐりて修行せさせましゝが、後には都にかへりてすませ給けり。是も御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おましましき。
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『神皇正統記』巻四 第六十九代 後朱雀院〜第七十代 後冷泉院第六十九代、第三十七世、後朱雀院。諱は敦良、後一条同母の弟也。丙子年即位、丁丑に改元。天皇賢明にましましけるとぞ。されど其比執柄権をほしきまゝにせられしかば、御政のあときこえず。無念なることにや。長久の比内裏に火ありて、神鏡焼給。猶霊光を現じ給ければその灰をあつめて安置せられき。天下を治給こと九年。三十七歳おましましき。 ○第七十代、後冷泉院。諱は親仁、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉年即位、丙戌改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからずきこえき。陸奥にも貞任・宗任など云し者、国をみだりければ、源頼義に仰て追討せらる。十二年ありてなむしづめ侍ける。此君御子ましまさざりし上、後朱雀の遺詔にて、後三条東宮にゐ給へりしかば、継体はかねてよりさだまりけるにこそ。天下を治給こと二十三年。四十四歳おましましき。
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