神皇正統記 / 巻四 第六十一代 朱雀天皇
平貞盛・藤原秀郷等心を一にして、将門をほろぼして其首を奉りしかば、諸将は道よりかへりまゐりにき。藤原純友と云物、かの将門に同意して西国にて叛乱せしかば、少将小野好古を遣て追討せらる。かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしも安寧なりしに、いつしか此乱出来る。天皇もおだやかにまし〳〵けり。又貞信公の執政なりしかば、政たがふことははべらじ。時の災難にこそとおぼえ侍る。天皇御子ましまさず。一腹の御弟太宰帥の親王を太弟にたてゝ、天位をゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。天下を治給こと十六年。三十歳おまし〳〵き。
書き下し
平貞盛・藤原秀郷等心を一にして、将門をほろぼして其首を奉りしかば、諸将は道よりかへりまゐりにき。藤原純友と云物、かの将門に同意して西国にて叛乱せしかば、少将小野好古を遣て追討せらる。かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしも安寧なりしに、いつしか此乱出来る。天皇もおだやかにましましけり。又貞信公の執政なりしかば、政たがふことははべらじ。時の災難にこそとおぼえ侍る。天皇御子ましまさず。一腹の御弟太宰帥の親王を太弟にたてゝ、天位をゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。天下を治給こと十六年。三十歳おましましき。
現代語訳
平貞盛・藤原秀郷らが心を一つにして将門を滅ぼし、その首を差し出したので、諸将は途中から都へ帰って参った。藤原純友という者が、かの将門に同調して西国で反乱したので、少将小野好古を遣わして追討させた。こうして天下は静まった。延喜の御代はあれほど安寧であったのに、いつの間にかこの乱が起こった。天皇も穏やかであられた。また貞信公(忠平)が執政であったから、政治に誤りはなかったであろう。時の災難であったと思われる。天皇には御子がおられなかった。同じ母の弟の太宰帥の親王を皇太弟に立てて、天位を譲って尊号を受けられた。後に出家なさった。天下を治められたこと十六年。三十歳まで存命であった。
解説
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『神皇正統記』巻四 第六十一代 朱雀天皇第六十一代、朱雀天皇。諱は寛明、醍醐十一の子。御母皇太后藤原穏子、関白太政大臣基経の女也。御兄保明の太子早世、その御子慶頼の太子もうちつゞきかくれましゝかば、保明一腹の御弟にて立給。庚寅年即位、辛卯に改元。外舅左大臣忠平摂政せらる。寛平に昭宣公薨てのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。此君又幼主にて立給によりて、故事にまかせて万機を摂行せられけるにこそ。此御時、平の将門と云物あり。上総介高望が孫也。執政の家につかうまつりけるが、使の宣旨を望申けり。不許なるによりいきどほりをなし、東国に下向して叛逆をおこしけり。まづ伯父常陸の大掾国香をせめしかば、国香自殺しぬ。これより坂東をゝしなびかし、下総国相馬郡に居所をしめ、都となづけ、みづから平親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。参議民部卿兼右衛門督藤原忠文朝臣を征東大将軍とし、源経基・藤原仲舒を副将軍としてさしつかはさる。
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院其後将門がみだれに右衛門督忠文朝臣征東将軍を兼て節刀を給しよりこのかた久くたえて任ぜられず。義仲ぞ初てなりにける。あまりなることおほくて、上皇御いきどほりのゆゑにや、近臣の中に軍をおこし対治せんとせしに事不成して中々あさましき事なんいできにし。東国の頼朝、弟範頼・義経等をさしのぼせしかば、義仲はやがて滅ぬ。さてそれより西国へむかひて、平氏をばたひらげしなり。天命きはまりぬれば、巨猾もほろびやすし。人民のやすからぬことは時の災難なれば、神も力およばせ給はぬにや。
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『神皇正統記』巻四 第五十一代 平城天皇第五十一代、平城天皇は桓武第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏、贈太政大臣良継の女也。丙戌年即位、改元。平安宮にまします。天下を治給こと四年。太弟にゆづりて太上天皇と申。平城の旧都にかへりてすませ給けり。尚侍藤原の薬子を寵ましけるに、其弟参議右兵衛督仲成等申すゝめて逆乱の事ありき。田村丸を大将軍として追討せられしに、平城の軍やぶれて、上皇出家せさせ給。御子東宮高岡の親王もすてられて、おなじく出家、弘法大師の弟子になり、真如親王と申はこれなり。薬子・仲成等誅にふしぬ。上皇五十一歳までおましましき。
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