神皇正統記 / 巻四 第六十代 醍醐天皇
第六十代、第三十三世、醍醐天皇。諱は敦仁、宇多第一の子。御母贈皇太后藤原の胤子、内大臣高藤の女也。丁巳年即位、戊午に改元。大納言左大将藤原時平、大納言右大将菅氏、両人上皇の勅をうけて輔佐し申されき。後に左右の大臣に任てともに万機を内覧せられけりとぞ。御門御年十四にて位につき給。をさなくまし〳〵しかど、聰明叡哲にきこえ給き。両大臣天下の政をせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下のゝぞむ所なり。左相は譜第の器也ければ、すてられがたし。或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでに召仰玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、さま〴〵の讒をまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。此君の御一失と申伝はべり。但菅氏権化の御事なれば、末世のためにやありけん、はかりがたし。
書き下し
第六十代、第三十三世、醍醐天皇。諱は敦仁、宇多第一の子。御母贈皇太后藤原の胤子、内大臣高藤の女也。丁巳年即位、戊午に改元。大納言左大将藤原時平、大納言右大将菅氏、両人上皇の勅をうけて輔佐し申されき。後に左右の大臣に任てともに万機を内覧せられけりとぞ。御門御年十四にて位につき給。をさなくましまししかど、聡明叡哲にきこえ給き。両大臣天下の政をせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下のゝぞむ所なり。左相は譜第の器也ければ、すてられがたし。或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでに召仰玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、さまざまの讒をまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。此君の御一失と申伝はべり。但菅氏権化の御事なれば、末世のためにやありけん、はかりがたし。
現代語訳
第六十代、第三十三世、醍醐天皇。諱は敦仁、宇多天皇の第一皇子である。母は贈皇太后藤原胤子で、内大臣藤原高藤の娘である。丁巳の年(八九七年)に即位し、戊午の年に改元した。大納言左大将藤原時平と大納言右大将菅原道真の両人が、上皇の勅を受けて補佐申し上げた。後に左右の大臣に任ぜられて、ともに万機を内覧されたという。帝は御年十四で位に就かれた。幼くあられたが、聡明で英知にすぐれておられると聞こえた。両大臣が天下の政治を執られたが、右大臣(道真)は年もたけ、才も優れていて、天下が望むところであった。左大臣(時平)は代々の家柄の器であったので、捨てがたかった。ある時、上皇の御所の朱雀院に行幸があり、なお右大臣に任せられるべきという決定があって、すでにお命じになったが、右大臣がかたく辞退申し上げて、沙汰やみになった。そのことが世に漏れたのであろうか、左大臣は憤りを含み、さまざまな讒言を設けて、ついに道真を失脚させ申し上げたことこそ、嘆かわしいことである。この君の御一失(一つの過ち)と申し伝えている。ただし菅原氏は神仏の化身であられたので、末の世のためであったのだろうか、測りがたい。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻四 第六十代 醍醐天皇善相公清行朝臣はこの事いまだきざゝざりしに、かねてさとりて菅氏に災をのがれ給べきよしを申けれど、さたなくて此事出来にき。さきにも申はべりし、我国には幼主の立給こと昔はなかりしこと也。貞観・元慶の二代始て幼にて立玉ひしかば、忠仁公・昭宣公摂政にて天下を治らる。此君ぞ十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづから政をしらせましましける。猶御幼年のゆゑにや、左相の讒にもまよはせ給けん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。其趣経書にみえたり。されば曾子は、「吾日三省吾躬。」と云、季文子は「三思。」とも云ふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよいよつゝしみましますべきこと也。昔応神天皇も讒をきかせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮およびがたし。ほどなく神とあらはれて、今にいたるまで霊験無双なり。末世の益をほどこさんためにや。讒を入し大臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみな神罰をかうぶりにき。
-
『神皇正統記』巻四 第六十代 醍醐天皇此君久く世をたもたせ給て、徳政をこのみ行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下泰平民間安穏にて、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、異域堯舜のかしこき道にもたぐへ申き。延喜七年丁卯年、もろこしの唐滅て梁と云国にうつりにけり。うちつゞき後唐・晋・漢・周となん云五代ありき。此天皇天下を治給こと三十三年。四十四歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇戊午の年即位、己未の夏四月に改元。々応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、夙におき、夜はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍き。かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮の御方にさぶらふ人々そはそはにきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申輩ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子の九月のすゑつかた、やうやう事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。
-
『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇かねて時をもさとらしめ給けるにや、まへの夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる。後の号をば、仰のまゝにて後醍醐天皇と申。天下を治給こと二十一年。五十二歳おましましき。昔仲哀天皇熊襲をせめさせ給し行宮にて神さりましましき。されど神功皇后程なく三韓をたひらげ、諸皇子の乱をしづめられて、胎中天皇の御代にさだまりき。この君聖運ましまししかば、百七十余年中たえにし一統の天下をしらせ給て、御目の前にて日嗣をさだめさせ給ぬ。功もなく徳もなきぬす人世におごりて、四とせ余がほど宸襟をなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念の末むなしく侍りなんや。今の御門また天照太神よりこのかたの正統をうけましましぬれば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中々かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。
-
『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇。諱は尊治、後宇多第二の御子。御母談天門院、藤原忠子、内大臣師継の女、実は入道参議忠継女なり。御祖父亀山の上皇やしなひ申給き。弘安に、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、たびたび関東に仰給しかば、天命の理かたじけなくおそれ思ければにや、俄に立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文ををさめ給しかど、一の御子さしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上の例により、太宰帥にて節会などに出させ給き。後に中務卿を兼せさせ給。後二条世をはやくしましまして、父の上皇なげかせ給し中にも、よろづこの君にぞ委附し申させ給ける。やがて儲君のさだめありしに、後二条の一のみこ邦良親王ゐ給べきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、此親王を太子にたて給。「かの一のみこをさなくましませば、御子の儀にて伝へさせ給べし。
-
『神皇正統記』巻五 第九十代 後宇多院寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易の深き道をも愛成と云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右にあたはず。菅氏輔佐したてまつられき。其後も紀納言・善相公等の名儒ありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。此御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申人のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。此君は在位にても政事をしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせましましき。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給る。元亨のすゑ甲子の六月に五十八歳にてかくれましましき。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る