神皇正統記 / 巻四 第五十八代 光孝天皇
其後相続て天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子の乱によりて、天武の御ながれ久伝へられしに、称徳女帝にて御嗣もなし。又政もみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御譲なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて立給。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてまし〳〵き。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて施基のみこ御とがなし。其御子なれば、此天皇の立給へること、正理にかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにて立給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれまし〳〵ければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらより出給こと是まで三代なり。人のなせることゝは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者哉。光孝より上つかたは一向上古也。よろづの例を勘も仁和より下つかたをぞ申める。
書き下し
其後相続て天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子の乱によりて、天武の御ながれ久伝へられしに、称徳女帝にて御嗣もなし。又政もみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御譲なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて立給。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてましましき。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて施基のみこ御とがなし。其御子なれば、此天皇の立給へること、正理にかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにて立給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれましましければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらより出給こと是まで三代なり。人のなせることゝは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者哉。光孝より上つかたは一向上古也。よろづの例を勘も仁和より下つかたをぞ申める。
現代語訳
その後、続いて天智・天武の御兄弟が立たれたが、大友皇子の乱によって、天武天皇の御流れが長く伝えられた。しかし称徳天皇は女帝で御世継ぎもなかった。また政治も乱れていると聞こえたので、確かな御譲りもなくて、その系統は絶えた。光仁天皇がまた傍系から選ばれて立たれた。これもまた継体天皇の御事に似ておられる。けれども天智天皇は正統であられた。第一の御子の大友皇子こそ誤って天下を得られなかったが、第二の皇子である施基皇子には御罪はない。その御子であるから、この天皇が立たれたことは、正しい道理に返ったと申すべきである。今の光孝天皇もまた昭宣公の選びによって立たれたとはいえ、皇統は仁明天皇の皇太子であった文徳天皇の御流れであったのに、陽成天皇が悪王で退けられたので、仁明天皇の第二の御子で、しかも賢さと才能が諸親王よりすぐれておられたのだから、疑いのない天命と見えた。このように傍系から出られたことは、これまでに三代ある。人のなしたことと心得申し上げてはならない。先に記した道理をよくわきまえられるべきである。光孝天皇より前はひたすら上古である。あらゆる先例を考える場合も、仁和(光孝天皇の年号)より後のことを取り上げるようである。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇神武より景行まで十二代は御子孫そのまゝつがせ給へり。うたがはしからず。日本武の尊世をはやくしましゝによりて、御弟成務へだゝり給しかど、日本武の御子にて仲哀伝へましましぬ。仲哀・応神の御後に仁徳つたへ給へりし、武烈悪王にて日嗣たえましゝ時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれ立給。これなむめづらしきためしに侍る。
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『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇古すら猶かゝる理にて天位を嗣給。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことゝ心えたてまつるべき也。此御代より藤氏の摂籙の家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔のみぞたゞしくつたへられにける。上は光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、下は昭宣公の子孫、天児屋の命の嫡流となり給へり。二神の御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。
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『神皇正統記』巻三 第四十九代 光仁天皇第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子の子、天智天皇の御孫也。御母贈皇太后紀旅子、贈太政大臣旅人の女也。白壁の王と申き。天平年中に御年二十九にて従四位下に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至給き。称徳かくれましましゝかば、大臣以下皇胤の中をえらび申けるに、おのおの異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひ申人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣をうけ給。そのかみ逆臣を誅し、国家をも安し給へり。この君のかく継体にそなはり給、猶正にかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に立、すなはち受禅。ことし庚戌年なり。十月に即位、十一月改元。平城宮にまします。天下を治給こと十二年。七十三歳おましましき。
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『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇第五十八代、第三十一世、光孝天皇。諱は時康、小松御門とも申。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子、贈太政大臣総継の女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政昭宣公もろもろの皇子を相申されけり。此天皇一品式部卿兼常陸太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にましましけるに、俄にまうでゝ見給ければ、人主の器量余の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀衛をとゝのへてむかへ申されけり。本位の服を着しながら鸞輿に駕して大内にいらせ給にき。ことし甲辰年なり。乙巳に改元。践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光摂政たりしが、宣帝の時政をかへして退けるを、「万機の政猶霍光に関白しめよ。」とありし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりて立給しかば御志もふかゝりしにや、其子を殿上にめして元服せしめ、御みづから位記をあそばして正五位下になし給けりとぞ。久絶にける芹川の御幸などありて、ふるきあとをおこさるゝことゝもきこえき。天下を治給こと三年。五十七歳おましましき。
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『神皇正統記』巻三 第四十代 天武天皇第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立て大倭にましましき。天智は近江にまします。御病ありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷の臣の中につげしらせ申人ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣大友の皇子にゆづりて、芳野宮に入給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野をゝそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高の郡にいたりて太神宮を遙拝し、美濃へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市まゐり給しを大将軍として、美濃の不破をまぼらめし、天皇は尾張国にぞこえ給ける。国々したがひ申しゝかば、不破の関の軍に打勝ぬ。則勢多にのぞみて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下或は誅にふし、或は遠流せらる。軍にしたがひ申輩しなじなによりて其賞をおこなはる。壬申年即位。大倭の飛鳥浄御原の宮にまします。朝廷の法度おほくさだめられにけり。上下うるしぬりの頭巾をきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おましましき。
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『神皇正統記』巻四 第五十五代 文徳天皇〜第五十六代 清和天皇第五十五代、文徳天皇。諱は道康、田村の帝とも申。仁明第一の子。御母太皇太后藤原の順子、左大臣冬嗣の女也。庚午年即位、辛未に改元。天下を治給こと八年。三十三歳おましましき。 ○第五十六代、清和天皇。諱は惟仁、水尾の帝とも申。文徳第四の子。御母皇太后藤原の明子、摂政太政大臣良房の女也。
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