神皇正統記 / 巻四 第五十八代 光孝天皇
第五十八代、第三十一世、光孝天皇。諱は時康、小松御門とも申。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子、贈太政大臣総継の女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政昭宣公もろ〳〵の皇子を相申されけり。此天皇一品式部卿兼常陸太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にまし〳〵けるに、俄にまうでゝ見給ければ、人主の器量余の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀衛をとゝのへてむかへ申されけり。本位の服を着しながら鸞輿に駕して大内にいらせ給にき。ことし甲辰年なり。乙巳に改元。践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光摂政たりしが、宣帝の時政をかへして退けるを、「万機の政猶霍光に関白しめよ。」とありし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりて立給しかば御志もふかゝりしにや、其子を殿上にめして元服せしめ、御みづから位記をあそばして正五位下になし給けりとぞ。久絶にける芹川の御幸などありて、ふるきあとをおこさるゝことゝもきこえき。天下を治給こと三年。五十七歳おまし〳〵き。
書き下し
第五十八代、第三十一世、光孝天皇。諱は時康、小松御門とも申。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子、贈太政大臣総継の女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政昭宣公もろもろの皇子を相申されけり。此天皇一品式部卿兼常陸太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にましましけるに、俄にまうでゝ見給ければ、人主の器量余の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀衛をとゝのへてむかへ申されけり。本位の服を着しながら鸞輿に駕して大内にいらせ給にき。ことし甲辰年なり。乙巳に改元。践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光摂政たりしが、宣帝の時政をかへして退けるを、「万機の政猶霍光に関白しめよ。」とありし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりて立給しかば御志もふかゝりしにや、其子を殿上にめして元服せしめ、御みづから位記をあそばして正五位下になし給けりとぞ。久絶にける芹川の御幸などありて、ふるきあとをおこさるゝことゝもきこえき。天下を治給こと三年。五十七歳おましましき。
現代語訳
第五十八代、第三十一世、光孝天皇。諱は時康、小松の帝とも申し上げる。仁明天皇の第二皇子である。母は贈皇太后藤原沢子で、贈太政大臣藤原総継の娘である。陽成天皇が退けられたとき、摂政の昭宣公(基経)は多くの皇子たちを見比べて品定めされた。この天皇は一品式部卿で常陸太守を兼ねておられたが、御年も高く、小松の宮におられたところへ、基経が急に参上してお会いになると、人の君たる器量がほかの皇子たちよりすぐれておられたので、すぐに儀仗を整えてお迎え申し上げた。天皇は親王の位の服を着たまま鳳輦に乗って内裏に入られた。この年は甲辰の年(八八四年)である。乙巳の年に改元した。践祚の初めに摂政を改めて関白とした。これがわが国の関白の始まりである。漢の霍光が摂政であったが、宣帝の時に政を返して退こうとしたのを、「万機の政はなお霍光に関(あずか)り白(もう)させよ」とあった、その名を取って授けられたのである。この天皇は昭宣公の決定によって立たれたので、そのお志も深かったのであろうか、基経の子を殿上に召して元服させ、御自ら位記をお書きになって正五位下に叙されたという。久しく絶えていた芹川への行幸などもあって、古い事跡を復興されたとも聞こえている。天下を治められたこと三年。五十七歳まで存命であった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇古すら猶かゝる理にて天位を嗣給。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことゝ心えたてまつるべき也。此御代より藤氏の摂籙の家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔のみぞたゞしくつたへられにける。上は光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、下は昭宣公の子孫、天児屋の命の嫡流となり給へり。二神の御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。
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『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇其後相続て天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子の乱によりて、天武の御ながれ久伝へられしに、称徳女帝にて御嗣もなし。又政もみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御譲なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて立給。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてましましき。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて施基のみこ御とがなし。其御子なれば、此天皇の立給へること、正理にかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにて立給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれましましければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらより出給こと是まで三代なり。人のなせることゝは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者哉。光孝より上つかたは一向上古也。よろづの例を勘も仁和より下つかたをぞ申める。
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『神皇正統記』巻四 第五十七代 陽成天皇第五十七代、陽成天皇。諱は貞明、清和第一の子。御母皇太后藤原の高子、贈太政大臣長良の女也。丁酉年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず。忠仁公の故事のごとし。此天皇性悪にして人主の器にたらずみえ給ければ、摂政なげきて廃立のことをさだめられにけり。昔漢の霍光、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、昌邑王を立て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。即廃立をおこなひて宣帝を立奉りき。霍光が大功とこそしるし伝へはべるめれ。此大臣まさしき外戚の臣にて政をもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。つぎつぎ大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の苗裔なり。積善の余慶なりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおましましき。
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『神皇正統記』巻三 第四十九代 光仁天皇第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子の子、天智天皇の御孫也。御母贈皇太后紀旅子、贈太政大臣旅人の女也。白壁の王と申き。天平年中に御年二十九にて従四位下に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至給き。称徳かくれましましゝかば、大臣以下皇胤の中をえらび申けるに、おのおの異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひ申人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣をうけ給。そのかみ逆臣を誅し、国家をも安し給へり。この君のかく継体にそなはり給、猶正にかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に立、すなはち受禅。ことし庚戌年なり。十月に即位、十一月改元。平城宮にまします。天下を治給こと十二年。七十三歳おましましき。
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