神皇正統記 / 巻四 第五十七代 陽成天皇
第五十七代、陽成天皇。諱は貞明、清和第一の子。御母皇太后藤原[の]高子、贈太政大臣長良の女也。丁酉年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず。忠仁公の故事のごとし。此天皇性悪にして人主の器にたらずみえ給ければ、摂政なげきて廃立のことをさだめられにけり。昔漢の霍光、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、昌邑王を立て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。即廃立をおこなひて宣帝を立奉りき。霍光が大功とこそしるし伝へはべるめれ。此大臣まさしき外戚の臣にて政をもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。つぎ〳〵大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の苗裔なり。積善の余慶なりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおまし〳〵き。
書き下し
第五十七代、陽成天皇。諱は貞明、清和第一の子。御母皇太后藤原の高子、贈太政大臣長良の女也。丁酉年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず。忠仁公の故事のごとし。此天皇性悪にして人主の器にたらずみえ給ければ、摂政なげきて廃立のことをさだめられにけり。昔漢の霍光、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、昌邑王を立て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。即廃立をおこなひて宣帝を立奉りき。霍光が大功とこそしるし伝へはべるめれ。此大臣まさしき外戚の臣にて政をもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。つぎつぎ大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の苗裔なり。積善の余慶なりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおましましき。
現代語訳
第五十七代、陽成天皇。諱は貞明、清和天皇の第一皇子である。母は皇太后藤原高子で、贈太政大臣藤原長良の娘である。丁酉の年(八七七年)に即位し、改元した。右大臣藤原基経が摂政となり、太政大臣に任ぜられた。忠仁公(良房)の先例のとおりである。この天皇は性質が悪く、人の君たる器に足りないと見えられたので、摂政は嘆いて廃立のことを決められた。昔、漢の霍光が昭帝を助けて摂政していたとき、昭帝が早く世を去られたので、昌邑王を立てて天子とした。昌邑王は不徳で器に足りなかった。すぐに廃立を行って宣帝をお立てした。霍光の大功として記し伝えられているようだ。この大臣(基経)はまさしく外戚の臣として政を一手に握っておられたが、天下のために大義を思って決め行われたのは、まことにすばらしい。だから一族にも人は多く聞こえたが、摂政関白はこの大臣の子孫だけが絶えることなく続くことになった。次々に大臣・大将に上る藤原の人々もみなこの大臣の子孫である。善を積んだ家には余りの幸いがある(積善の余慶)ということであろうと思われる。天皇は天下を治められたこと八年で退けられ、八十一歳まで存命であった。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇第五十八代、第三十一世、光孝天皇。諱は時康、小松御門とも申。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子、贈太政大臣総継の女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政昭宣公もろもろの皇子を相申されけり。此天皇一品式部卿兼常陸太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にましましけるに、俄にまうでゝ見給ければ、人主の器量余の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀衛をとゝのへてむかへ申されけり。本位の服を着しながら鸞輿に駕して大内にいらせ給にき。ことし甲辰年なり。乙巳に改元。践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光摂政たりしが、宣帝の時政をかへして退けるを、「万機の政猶霍光に関白しめよ。」とありし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりて立給しかば御志もふかゝりしにや、其子を殿上にめして元服せしめ、御みづから位記をあそばして正五位下になし給けりとぞ。久絶にける芹川の御幸などありて、ふるきあとをおこさるゝことゝもきこえき。天下を治給こと三年。五十七歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻四 第五十五代 文徳天皇〜第五十六代 清和天皇第五十五代、文徳天皇。諱は道康、田村の帝とも申。仁明第一の子。御母太皇太后藤原の順子、左大臣冬嗣の女也。庚午年即位、辛未に改元。天下を治給こと八年。三十三歳おましましき。 ○第五十六代、清和天皇。諱は惟仁、水尾の帝とも申。文徳第四の子。御母皇太后藤原の明子、摂政太政大臣良房の女也。
-
『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇古すら猶かゝる理にて天位を嗣給。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことゝ心えたてまつるべき也。此御代より藤氏の摂籙の家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔のみぞたゞしくつたへられにける。上は光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、下は昭宣公の子孫、天児屋の命の嫡流となり給へり。二神の御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。
-
『神皇正統記』巻四 幼主と摂政我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、戊寅年也。己卯に改元。践祚ありしかば、外祖良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云こと、もろこしには唐堯の時、虞舜を登用て政をまかせ給き。これを摂政と云ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。殷の代に伊尹と云聖臣あり。湯及大甲を輔佐す。是は保衡と云。其心は摂政也。周の世に周公旦又大聖なりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父なり。武王の代には三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから南面して摂政す。漢昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔により博陸侯霍光と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤にも申める。本朝には応神うまれ給て襁褓にましまししかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸皇太子摂政し給。これぞ帝は位に備て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。斉明天皇の御世に、御子中の大兄の皇太子摂政し給。元明の御世のすゑつかた、皇女浄足姫の尊しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。
-
『神皇正統記』巻四 第五十六代 清和天皇氏長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及氏の社のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退の心ふかく閑適をこのみて、つねに朝参などもせられざりけり。其比大納言伴善男と云人寵ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公闕なかりき。信の左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼しむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏す。天皇おどろき給て、糺明におよばず、右大臣に召仰て、すでに誅せらるべきになりぬ。
-
『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇其後相続て天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子の乱によりて、天武の御ながれ久伝へられしに、称徳女帝にて御嗣もなし。又政もみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御譲なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて立給。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてましましき。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて施基のみこ御とがなし。其御子なれば、此天皇の立給へること、正理にかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにて立給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれましましければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらより出給こと是まで三代なり。人のなせることゝは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者哉。光孝より上つかたは一向上古也。よろづの例を勘も仁和より下つかたをぞ申める。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る