神皇正統記 / 巻四 第五十六代 清和天皇
但此藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議中衛大将房前、其子大納言真楯、その子右大臣内麿、この三代は上二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子冬嗣の大臣藤氏の衰ぬることをなげきて、弘法大師に申あはせて興福寺に南円堂をたてゝ祈申されけり。此時明神役夫にまじはりて、 補陀落の南の岸に堂たてゝ今ぞさかえん北の藤浪 と詠給けるとぞ。此時源氏の人あまたうせにけりと申人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫の源の姓を給て高官高位にいたることは此後のことなれば、誰人かうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに祈請にこたへたりとはみえたり。大方この大臣とほき慮おはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司あり。菅・江の二家これをつかさどりて、人を教る所也。彼大学の南にこの院を立られしかば、南曹とぞ申める。
書き下し
但此藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議中衛大将房前、其子大納言真楯、その子右大臣内麿、この三代は上二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子冬嗣の大臣藤氏の衰ぬることをなげきて、弘法大師に申あはせて興福寺に南円堂をたてゝ祈申されけり。此時明神役夫にまじはりて、 補陀落の南の岸に堂たてゝ今ぞさかえん北の藤浪 と詠給けるとぞ。此時源氏の人あまたうせにけりと申人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫の源の姓を給て高官高位にいたることは此後のことなれば、誰人かうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに祈請にこたへたりとはみえたり。大方この大臣とほき慮おはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司あり。菅・江の二家これをつかさどりて、人を教る所也。彼大学の南にこの院を立られしかば、南曹とぞ申める。
現代語訳
ただし、この藤原の一門が、神代からいわれがあって国王をお助け申し上げてきたことは、先にもところどころに記しておいた。淡海公(不比等)ののち、参議中衛大将房前、その子の大納言真楯、その子の右大臣内麿、この三代は、上の二代(鎌足・不比等)ほどには栄えなかったのであろうか。内麿の子の冬嗣大臣は、藤原氏が衰えたことを嘆いて、弘法大師に相談して興福寺に南円堂を建てて祈られた。このとき明神が人夫に交じって、「補陀落の南の岸に堂たてて今ぞさかえん北の藤浪(観音の浄土補陀落の南の岸に堂を建てて、今こそ栄えるだろう、北家の藤の波は)」とお詠みになったという。このとき源氏の人が多く亡くなったと言う人があるが、大きな誤りである。皇子皇孫が源の姓を賜って高官高位に至ったのはこれより後のことであるから、誰が亡くなることがあろうか。けれども、かの一門が栄えたことは、まことに祈りに応えたものと見える。おおよそこの大臣は遠い先まで見通す思慮がおありだったのであろう。子孫や親族に学問を勧めるために勧学院を建立した。大学寮には東西の曹司があり、菅原・大江の二家がこれをつかさどって、人を教える所である。かの大学の南にこの院を建てられたので、南曹と申すようである。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻三 第四十二代 文武天皇南家・式家も儒胤にていまに相続すと云ども、たゞ北家のみ繁昌す。房前の大将人にことなる陰徳こそおはしけめ。又不比等の大臣は後に淡海公と申也。興福寺を建立す。此寺は大織冠の建立にて山背の山階にありしを、このおとゞ平城にうつさる。仍山階寺とも申也。後に玄昉と云ふ僧、唐へわたりて法相宗を伝へて、此寺にひろめられしより、氏神春日の明神も殊に此宗を擁護し給とぞ。此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おましましき。
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりの誓にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋の御流君をたすけ奉るべき器となれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらば二神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なかなか上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にも封ぜられ、将相にも任ぜられき。崇神天皇十年に始て四人の将軍を任じて四道へつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て棟梁の臣を置て武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣とす。六代の朝につかへて執政たり。此大臣も孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠氏をさかやかし、忠仁公政を摂せられしより、もはら輔佐の器として、立かへり、神代の幽契のまゝに成ぬるにや。閑院の大臣冬嗣氏の衰たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇大臣にのぼる人、能有の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝の右大臣兼大将。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を給て大臣にのぼる人、雅信の左大臣、重信の左大臣。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、高明の左大臣兼大将、兼明の左大臣。この後は皇子の姓を給ことはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣を本としるすによりてことごとくはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁の左大臣兼大将二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたまたま大臣に至てもいづれか二代と相継る。ほとほと納言以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。皇胤の貴種より出ぬる人、蔭をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに慢ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。
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