神皇正統記 / 巻四 幼主と摂政
我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、戊寅年也。己卯に改元。践祚ありしかば、外祖良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云こと、もろこしには唐堯の時、虞舜を登用て政をまかせ給き。これを摂政と云ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。殷の代に伊尹と云聖臣あり。湯及大甲を輔佐す。是は保衡と云。其心は摂政也。周の世に周公旦又大聖なりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父なり。武王の代には三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから南面して摂政す。漢昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔により博陸侯霍光と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤にも申める。本朝には応神うまれ給て襁褓にまし〳〵しかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸皇太子摂政し給。これぞ帝は位に備て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。齊明天皇の御世に、御子中の大兄の皇太子摂政し給。元明の御世のすゑつかた、皇女浄足姫の尊しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。
新字:我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、戊寅年也。己卯に改元。践祚ありしかば、外祖良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云こと、もろこしには唐堯の時、虞舜を登用て政をまかせ給き。これを摂政と云ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。殷の代に伊尹と云聖臣あり。湯及大甲を輔佐す。是は保衡と云。其心は摂政也。周の世に周公旦又大聖なりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父なり。武王の代には三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから南面して摂政す。漢昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔により博陸侯霍光と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤にも申める。本朝には応神うまれ給て襁褓にまし〳〵しかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸皇太子摂政し給。これぞ帝は位に備て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。斉明天皇の御世に、御子中の大兄の皇太子摂政し給。元明の御世のすゑつかた、皇女浄足姫の尊しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。
書き下し
我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、戊寅年也。己卯に改元。践祚ありしかば、外祖良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云こと、もろこしには唐堯の時、虞舜を登用て政をまかせ給き。これを摂政と云ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。殷の代に伊尹と云聖臣あり。湯及大甲を輔佐す。是は保衡と云。其心は摂政也。周の世に周公旦又大聖なりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父なり。武王の代には三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから南面して摂政す。漢昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔により博陸侯霍光と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤にも申める。本朝には応神うまれ給て襁褓にましまししかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸皇太子摂政し給。これぞ帝は位に備て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。斉明天皇の御世に、御子中の大兄の皇太子摂政し給。元明の御世のすゑつかた、皇女浄足姫の尊しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。
現代語訳
わが国では幼い君主が位に即かれることはまれであった。この天皇は九歳で即位され、戊寅の年である。翌年に改元された。践祚があったので、外祖父である良房の大臣がはじめて摂政をつとめられた。摂政ということは、中国では唐堯の時に虞舜を登用して政をお任せになった。これを摂政という。こうして三十年経って正位を受けられた。殷の代には伊尹という聖なる臣があり、湯王と大甲を輔佐した。これは保衡と呼ぶ。その意味は摂政である。周の世には周公旦がまた大聖であった。文王の子、武王の弟、成王の叔父である。武王の代には三公に列なり、成王が幼くして位に即かれたので、周公は自ら南面して摂政した。漢の昭帝もまた幼くして即位した。武帝の遺詔により、博陸侯の霍光という人が大司馬大将軍として摂政した。なかでも周公と霍光を先例として挙げるのが常である。わが国では応神天皇が生まれられて襁褓におられたので、神功皇后が天位に即かれた。しかし摂政と申し伝えている。これは今の形とは異なる。推古天皇の御時には厩戸皇太子が摂政された。これこそ帝は位に備わって、天下の政はすべて摂政の思うままであった。斉明天皇の御世には、御子の中大兄皇太子が摂政された。元明の御世の末頃には、皇女の浄足姫の尊がしばらく摂政された。この天皇の御時の良房の大臣の摂政からこそ、まさしく臣下の身で摂政することが始まったのである。
解説
この章句が説くこと
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