神皇正統記 / 巻三 第四十二代 文武天皇
南家・式家も儒胤にていまに相続すと云ども、たゞ北家のみ繁昌す。房前の大将人にことなる陰徳こそおはしけめ。又不比等の大臣は後に淡海公と申也。興福寺を建立す。此寺は大織冠の建立にて山背の山階にありしを、このおとゞ平城にうつさる。仍山階寺とも申也。後に玄昉と云ふ僧、唐へわたりて法相宗を伝へて、此寺にひろめられしより、氏神春日の明神も殊に此宗を擁護し給とぞ。此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おまし〳〵き。
書き下し
南家・式家も儒胤にていまに相続すと云ども、たゞ北家のみ繁昌す。房前の大将人にことなる陰徳こそおはしけめ。又不比等の大臣は後に淡海公と申也。興福寺を建立す。此寺は大織冠の建立にて山背の山階にありしを、このおとゞ平城にうつさる。仍山階寺とも申也。後に玄昉と云ふ僧、唐へわたりて法相宗を伝へて、此寺にひろめられしより、氏神春日の明神も殊に此宗を擁護し給とぞ。此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おましましき。
現代語訳
南家・式家も学者の家筋として今に続いているとはいえ、ただ北家だけが繁栄している。房前大将には人にまさる陰徳がおありだったのであろう。また不比等大臣はのちに淡海公と申し上げる。興福寺を建立した。この寺は大織冠(鎌足)の建立で、山背の山階にあったのを、この大臣が平城に移された。それで山階寺とも申すのである。のちに玄昉という僧が唐へ渡って法相宗を伝え、この寺で広められてから、氏神の春日明神もとりわけこの宗を守護なさるという。この天皇が天下を治められたのは十一年で、二十五歳であられた。
解説
藤原四家のうち北家だけが栄えた理由を、親房は房前の「陰徳」に求める。人に知られない善行が子孫の繁栄となって現れたという見方で、目に見える功績よりも、見えないところでの積み重ねが家の行く末を決めるという考えである。南家・式家は学問の家として続いてはいるが、朝廷の中枢には北家しか残らなかった。続いて、不比等が鎌足の建てた山階寺を平城京に移して興福寺としたこと、玄昉が唐から法相宗を伝えてこの寺で広めたこと、藤原氏の氏神である春日明神がこの宗を守護するとされたことを記す。氏寺と氏神と宗派が一体となって一つの家を支える構造が描かれている。神仏を重ねて見る親房の考えは、ここでは一つの氏族の信仰の姿として示される。繁栄の理由を見えない徳に求める親房の目は、功績の目立つ人ばかりを見ていない。
関連する章句
-
『神皇正統記』巻四 第五十六代 清和天皇但此藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議中衛大将房前、其子大納言真楯、その子右大臣内麿、この三代は上二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子冬嗣の大臣藤氏の衰ぬることをなげきて、弘法大師に申あはせて興福寺に南円堂をたてゝ祈申されけり。此時明神役夫にまじはりて、 補陀落の南の岸に堂たてゝ今ぞさかえん北の藤浪 と詠給けるとぞ。此時源氏の人あまたうせにけりと申人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫の源の姓を給て高官高位にいたることは此後のことなれば、誰人かうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに祈請にこたへたりとはみえたり。大方この大臣とほき慮おはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司あり。菅・江の二家これをつかさどりて、人を教る所也。彼大学の南にこの院を立られしかば、南曹とぞ申める。
-
『神皇正統記』巻三 第四十二代 文武天皇第四十二代、文武天皇は草壁の太子第二の子、天武の嫡孫也。御母阿閇の皇女、天智御女也。丁酉年即位。猶藤原の宮にまします。此御時唐国の礼をうつして、宮室のつくり、文武官の衣服の色までもさだめられき。又即位五年辛丑より始て年号あり。大宝と云ふ。これよりさきに、孝徳の御代に大化・白雉、天智の御時白鳳、天武の御代に朱雀・朱鳥なんど云ふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の始とする也。又皇子を親王と云こと此御時にはじまる。又藤原の内大臣鎌足の子、不比等の大臣、執政の臣にて律令なんどをもえらびさだめられき。藤原の氏、此大臣よりいよいよさかりになれり。四人の子おはしき。是を四門と云ふ。一門は武智麿の大臣の流、南家と云ふ。二門は参議中衛大将房前の流、北家と云ふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。三門は式部卿宇合の流、式家と云ふ。四門は左京大夫麿の流、京家といひしがはやくたえにけり。
-
『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳と云し人、政事にまじらひしを黒衣宰相といひき。梁の世に恵超と云し僧、学士の官になりき。北朝の魏の明元帝の代に法果と云僧、安城公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗の朝に道平と云人、帝と心を一にして安禄山が乱をたひらげし故に、金吾将軍になされにけり。代宗の時、天竺の不空三蔵をたふとび給あまりにや、特進試鴻臚卿をさづけらる。後に開府儀同三司粛国公とす。帰寂ありしかば司空の官をおくらる。則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おましましき。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤ましまさず。此女帝にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野の講師になしてながしくだされにき。抑此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。
-
『神皇正統記』巻三 第四十五代 聖武天皇第四十五代、聖武天皇は文武の太子。御母皇太夫人藤原の宮子、淡海公不比等の大臣の女也。豊桜彦の尊と申。をさなくましゝによりて、元明・元正まづ位にゐ給き。甲子年即位、改元。平城宮にまします。此御代大に仏法をあがめ給こと先代にこえたり。東大寺を建立し、金銅十六丈の仏をつくらる。又諸国に国分寺及国分尼寺を立て、国土安穏のために法華・最勝両部の経を講ぜらる。又おほくの高僧他国より来朝す。南天竺の波羅門僧正、林邑の仏哲、唐の鑑真和尚等是也。真言の祖師、中天竺の善無畏三蔵も来給へりしが、密機いまだ熟せずとてかへり給にけりともいへり。此国にも行基菩薩・朗弁僧正など権化人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖とぞ申伝へたる。此御時太宰少弐藤原広継と云人謀叛のきこえあり、追討せらる。祈祷のために天平十二年十月伊勢の神宮に行幸ありき。又左大臣長屋王つみありて誅せらる。又陸奥国より始て黄金をたてまつる。此朝に金ある始なり。国の司の王、賞ありて三位に叙す。
-
『神皇正統記』巻三 第五十代 桓武天皇その年紀もたがはず、又数十代不易の都となりぬる、誠に王気相応の福地たるにや。この天皇大に仏法をあがめ給。延暦二十三年伝教・弘法勅をうけて唐へわたり給。其時すなはち唐朝へ使をつかはさる。大使は参議左大弁兼越前守藤原葛野麿朝臣也。伝教は天台の道邃和尚にあひ、その宗をきはめて同二十四年に大使と共に帰朝せらる。弘法は猶かの国にとゞまりて大同年中に帰給。この御時東夷叛乱しければ、坂上の田村丸を征東大将軍になしてつかはされしに、ことごとくたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は武勇人にすぐれたりき。初は近衛の将監になり、少将にうつり、中将に転じ、弘仁の御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。文をもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまに文士にてぞつたはれる。天皇天下を治給こと二十四年。七十歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻三 第三十六代 皇極天皇昔天孫あまくだり給し時、諸神の上首にて、此命、殊に天照太神の勅をうけて輔佐の神にまします。中臣と云ことも、二神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。其孫天種子の命、神武の御代に祭事をつかさどる。上古は神と皇と一にましまししかば、祭をつかさどるは即政をとれる也。其後天照太神、始て伊勢国にしづまりましゝ時、種子の命のすゑ大鹿嶋の命祭官になりて、鎌足大臣の父御食子までもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲をたて、世に寵せられしによりて、祖業をおこし先烈をさかやかされける、無止こと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえ侍れ。後に内臣に任じ大臣に転じ、大織冠となる。又中臣をあらためて藤原の姓を給らる。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟軽の王に譲給。御名を皇祖母の尊とぞ申ける。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る