神皇正統記 / 巻四 第五十三代 淳和天皇
第五十三代、淳和天皇、西院の帝とも申。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の旅子、贈太政大臣百川の女也。癸卯年即位、甲辰に改元。天下を治給こと十年。太子にゆづりて太上天皇と申。此時両上皇まし〳〵ければ、嵯峨をば前太上天皇、此御門をば後太上天皇と申き。嵯峨御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子恒貞親王立給しが、両上皇かくれましゝ後にゆゑありてすてられ給き。五十七歳おまし〳〵き。
書き下し
第五十三代、淳和天皇、西院の帝とも申。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の旅子、贈太政大臣百川の女也。癸卯年即位、甲辰に改元。天下を治給こと十年。太子にゆづりて太上天皇と申。此時両上皇ましましければ、嵯峨をば前太上天皇、此御門をば後太上天皇と申き。嵯峨御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子恒貞親王立給しが、両上皇かくれましゝ後にゆゑありてすてられ給き。五十七歳おましましき。
現代語訳
第五十三代、淳和天皇は、西院の帝とも申し上げる。桓武天皇の第三皇子である。母は贈皇太后藤原旅子で、贈太政大臣藤原百川の娘である。癸卯の年(八二三年)に即位し、甲辰の年に改元した。天下を治められたこと十年。皇太子に位を譲って太上天皇と申し上げた。このとき上皇が二人おられたので、嵯峨上皇を前太上天皇、この帝を後太上天皇と申し上げた。嵯峨上皇のお取り決めであろうか、皇太子にはまたこの帝の皇子恒貞親王が立たれたが、両上皇が亡くなられたのちに、わけがあって廃されてしまった。五十七歳まで存命であった。
解説
淳和天皇の記事である。「第何世」の添え書きがないのは、この天皇の血筋が皇位の本流にならなかったからである。嵯峨上皇の取り決めで、皇位は嵯峨の子の仁明と淳和の子の恒貞親王とで交互に受け継ぐ形になった。ところが両上皇が亡くなると、恒貞親王は「ゆゑありて」廃された。親房はその事情を記さないが、一般には承和の変として知られる政変である。二人の上皇が生きている間は保たれていた約束が、二人がいなくなるとすぐに崩れた。二つの皇統が交互に位に就く取り決めは、親房の時代の持明院統と大覚寺統の間でも行われ、やはり長くは続かなかった。個人の徳と信頼の上に置かれた約束は、その人がいなくなれば支えを失う。後継の取り決めを、当事者の善意ではなく仕組みとして残せるかどうかが問われている段である。
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