神皇正統記 / 巻四 第五十二代 嵯峨天皇
上皇ふかく謙譲しましけるに、親王又かくのがれ給ける、末代までの美談にや。昔仁徳兄弟相譲給し後にはきかざりしこと也。五十七歳おまし〳〵き。
書き下し
上皇ふかく謙譲しましけるに、親王又かくのがれ給ける、末代までの美談にや。昔仁徳兄弟相譲給し後にはきかざりしこと也。五十七歳おましましき。
現代語訳
上皇が深く謙譲なさったのに対し、親王もまたこのように辞退されたのは、末代までの美談であろう。昔、仁徳天皇の兄弟が互いに位を譲り合われて以後は、聞かなかったことである。上皇は五十七歳まで存命であった。
解説
嵯峨上皇と恒世親王の譲り合いを「末代までの美談」とたたえる短い段である。比べられているのは、巻二に見える仁徳天皇と弟の菟道稚郎子が皇位を譲り合った話で、親房はそれ以来のことだと言う。この書で皇位の継承は、奪い合うものではなく、譲り合うことで保たれるべきものとして描かれる。上が深く謙り、下もまた受けずに退く。どちらにも位への執着がない。親房がこれを強調する背景には、彼自身の時代がある。鎌倉時代の後半から皇統は持明院統と大覚寺統の二つに分かれ、互いに位を争った。その争いが南北朝の分裂にまでつながったことは一般に知られた史実である。譲り合いを称える言葉は、譲り合えなかった時代の当事者が書いたものだと思って読むと重みが変わる。後継をめぐる争いに疲れた組織ほど、この段の短い賛辞が身にしみるはずである。
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