神皇正統記 / 巻四 第五十二代 嵯峨天皇
第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武第二の子、平城同母の弟也。太弟に立給へりしが、己丑年即位、庚寅に改元。此天皇幼年より聰明にして読書を好、諸芸を習給。又謙譲の大度もましましけり。桓武帝鍾愛無双の御子になんおはしける。儲君にゐ給けるも父のみかど継体のために顧命しまし〳〵けるにこそ。格式なども此御時よりえらびはじめられにき。又深仏法をあがめ給。先世に美濃国神野と云所にたふとき僧ありけり。橘太后の先世にねむごろに給仕しけるを感じて相共に再誕ありとぞ。御諱を神野と申けるも自然にかなへり。伝教弘法両大師唐より伝へ給し天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。此両師直也人におはせず。伝教入唐以前より比叡山をひらきて練行せられけり。今の根本中堂の地をひかれけるに、八の舌ある鎰をもとめいでゝ唐までもたれたり。天台山にのぼりて智者大師六代の正統道邃和尚に謁して、その宗をならはれしに、彼山に智者帰寂より以来鎰をうしなひてひらかざる一蔵ありき。
書き下し
第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武第二の子、平城同母の弟也。太弟に立給へりしが、己丑年即位、庚寅に改元。此天皇幼年より聡明にして読書を好、諸芸を習給。又謙譲の大度もましましけり。桓武帝鍾愛無双の御子になんおはしける。儲君にゐ給けるも父のみかど継体のために顧命しましましけるにこそ。格式なども此御時よりえらびはじめられにき。又深仏法をあがめ給。先世に美濃国神野と云所にたふとき僧ありけり。橘太后の先世にねむごろに給仕しけるを感じて相共に再誕ありとぞ。御諱を神野と申けるも自然にかなへり。伝教弘法両大師唐より伝へ給し天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。此両師直也人におはせず。伝教入唐以前より比叡山をひらきて練行せられけり。今の根本中堂の地をひかれけるに、八の舌ある鎰をもとめいでゝ唐までもたれたり。天台山にのぼりて智者大師六代の正統道邃和尚に謁して、その宗をならはれしに、彼山に智者帰寂より以来鎰をうしなひてひらかざる一蔵ありき。
現代語訳
第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子で、平城天皇と同じ母から生まれた弟である。皇太弟に立っておられたが、己丑の年(八〇九年)に即位し、庚寅の年に改元した。この天皇は幼いころから聡明で読書を好み、さまざまな芸を習われた。また謙譲の大きな度量もお持ちであった。桓武天皇がこの上なく愛された皇子であった。皇太子の位に就かれたのも、父帝が皇統を継がせるために後事を託されたからであろう。格式(律令を補う法令と施行細則)なども、この御代から編纂が始められた。また深く仏法を崇められた。前世に美濃国の神野(かみの)という所に尊い僧がいた。橘太后(嘉智子)の前世の人が心をこめてその僧に仕えたのに感じて、ともに生まれ変わったのだという。御名を神野と申し上げたのも自然に符合している。伝教・弘法の両大師が唐から伝えられた天台・真言の両宗も、この御代から広まった。この両師はただの人ではなかった。伝教大師は入唐する以前から比叡山を開いて修行しておられた。今の根本中堂の地を切り開かれたときに、八つの舌のある鍵を掘り出して、唐まで持って行かれた。天台山に登り、智者大師(智顗)から六代目の正統である道邃(どうすい)和尚に会ってその宗を学ばれたところ、あの山には、智者大師が亡くなって以来、鍵を失って開かずにいる一つの蔵があった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇弘仁の御宇より真言・天台のさかりになることを聊しるし侍につきて、大方の宗々伝来のおもむきを載たり。極てあやまりおほく侍らん。但君としてはいづれの宗をも大概しろしめして捨られざらんことぞ国家攘災の御はかりことなるべき。菩薩・大士もつかさどる宗あり。我朝の神明もとりわき擁護し給ふ教あり。
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『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇上皇ふかく謙譲しましけるに、親王又かくのがれ給ける、末代までの美談にや。昔仁徳兄弟相譲給し後にはきかざりしこと也。五十七歳おましましき。
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『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇山門・寺門は天台をむねとするゆゑにや、顕密をかねたれど宗の長をも天台座主と云めり。此天皇諸宗を並て興ぜさせ給けり。中にも伝教・弘法御帰依ふかゝりき。伝教始て円頓の戒壇をたつべきよし奏せられしを、南京の諸宗表を上てあらそひ申ししかど、つひに戒壇の建立をゆるされ、本朝四け所の戒場となる。弘法はことさら師資の御約ありければ、おもくし給けるとぞ。此両宗の外、華厳・三論は東大寺にこれをひろめらる。彼華厳は唐の杜順和尚よりさかりになれりしを、日本の朗弁僧正伝へて東大寺に興隆す。此寺は則此宗によりて建立せられけるにや、大華厳寺と云名あり。三論は東晋の同時に後秦と云国に、羅什三蔵と云師来て、此宗をひらきて世に伝へたり。孝徳の御世に高麗の僧恵潅来朝して伝へ始ける。しからば最前流布の教にや。其後道慈律師請来して大安寺にひろめき。今は華厳とならびて東大寺にあり。法相は興福寺にあり。唐玄弉三蔵天竺より伝へて国にひろめらる。
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『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇心みに此鎰にてあけらるゝにとゞこほらず。一山こぞりて渇仰しけり。仍一宗の奥義のこる所なく伝られたりとぞ。其後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼門風いよいよさかりになりて天下に流布せり。唐国みだれしより経教おほくうせぬ。道邃より四代にあたれる義寂と云人まで、たゞ観心を伝へて宗義をあきらむることたえにけるにや。呉越国の忠懿王此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、教典をもとめしむ。ことごとくうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代の中、後唐の末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本よりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりて本となるなり。凡伝教彼宗の秘密を伝へられたることもことごとく一宗の論疏をうつし、国にかへれることも異朝の書にみえたり。弘法は母懐胎の始、夢に天竺の僧来りて宿をかり給けりとぞ。
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『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇宝亀五年甲寅六月十五日誕生。この日唐の大暦九年六月十五日にあたれり。不空三蔵入滅す。仍かの後身と申也。かつは恵果和尚の告にも「我と汝と久契約あり。誓て密蔵を弘。」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或は五筆の芸をほどこし、さまざまの神異ありしかば、唐の主、順宗皇帝ことに仰信じ給き。彼恵果和尚六人の附法あり。剣南の惟上・河北の義円、新羅の恵日・訶陵の弁弘、青龍の義明・日本の空海。義明は唐朝におきて潅頂の師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中に瀉瓶たり。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。伝教も、不空の弟子順暁にあひて真言を伝へられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義操・法潤ときこえしが弟子法全にあひて伝へらる。凡本朝流布の宗、今は七宗也。此中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧専鎮護国家のためと心ざゝれけるにや。
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『神皇正統記』巻四 第五十二代 嵯峨天皇乃至囲碁弾碁の戯までもおろかなる心ををさめ、かろがろしきわざをとゞめんがためなり。たゞし其源にもとづかずとも、一芸はまなぶべきことにや。孔子も「飽食て終日に心を用所なからんよりは博奕をだにせよ。」と侍めり。まして一道をうけ、一芸にも携らん人、本をあきらめ、理をさとる志あらば、これより理世の要ともなり、出離のはかりことゝもなりなむ。一気一心にもとづけ、五大五行により相剋・相生をしり自もさとり他にもさとらしめん事、よろづの道其理一なるべし。此御門誠に顕密の両宗に帰給しのみならず、儒学もあきらかに、文章もたくみに、書芸もすぐれ給へりし、宮城の東面の額も御みづからかゝしめ給き。天下を治給こと十四年。皇太弟にゆづりて太上天皇と申。帝都の西、嵯峨山と云所に離宮をしめてぞましましける。一旦国をゆづり給しのみならず、行末までもさづけましまさんの御心ざしにや、新帝の御子、恒世の親王を太子に立給しを、親王又かたく辞退して世をそむき給けるこそありがたけれ。
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