神皇正統記 / 巻四 第六十一代 朱雀天皇
第六十一代、朱雀天皇。諱は寛明、醍醐十一の子。御母皇太后藤原穏子、関白太政大臣基経の女也。御兄保明の太子早世、その御子慶頼の太子もうちつゞきかくれましゝかば、保明一腹の御弟にて立給。庚寅年即位、辛卯に改元。外舅左大臣忠平摂政せらる。寛平に昭宣公薨てのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。此君又幼主にて立給によりて、故事にまかせて万機を摂行せられけるにこそ。此御時、平の将門と云物あり。上総介高望が孫也。執政の家につかうまつりけるが、使の宣旨を望申けり。不許なるによりいきどほりをなし、東国に下向して叛逆をおこしけり。まづ伯父常陸の大掾国香をせめしかば、国香自殺しぬ。これより坂東をゝしなびかし、下総国相馬郡に居所をしめ、都となづけ、みづから平親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。参議民部卿兼右衛門督藤原忠文朝臣を征東大将軍とし、源経基・藤原仲舒を副将軍としてさしつかはさる。
書き下し
第六十一代、朱雀天皇。諱は寛明、醍醐十一の子。御母皇太后藤原穏子、関白太政大臣基経の女也。御兄保明の太子早世、その御子慶頼の太子もうちつゞきかくれましゝかば、保明一腹の御弟にて立給。庚寅年即位、辛卯に改元。外舅左大臣忠平摂政せらる。寛平に昭宣公薨てのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。此君又幼主にて立給によりて、故事にまかせて万機を摂行せられけるにこそ。此御時、平の将門と云物あり。上総介高望が孫也。執政の家につかうまつりけるが、使の宣旨を望申けり。不許なるによりいきどほりをなし、東国に下向して叛逆をおこしけり。まづ伯父常陸の大掾国香をせめしかば、国香自殺しぬ。これより坂東をゝしなびかし、下総国相馬郡に居所をしめ、都となづけ、みづから平親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。参議民部卿兼右衛門督藤原忠文朝臣を征東大将軍とし、源経基・藤原仲舒を副将軍としてさしつかはさる。
現代語訳
第六十一代、朱雀天皇。諱は寛明、醍醐天皇の第十一皇子である。母は皇太后藤原穏子で、関白太政大臣藤原基経の娘である。兄の保明皇太子が早世し、その御子の慶頼皇太子も続いて亡くなられたので、保明と同じ母から生まれた弟として立たれた。庚寅の年(九三〇年)に即位し、辛卯の年に改元した。母方の叔父の左大臣藤原忠平が摂政となられた。寛平の代に昭宣公が亡くなってのちは、延喜の御一代の間、摂関はなかった。この君はまた幼い君主として立たれたので、先例に従って万機を代わって執り行われたのである。この御代に、平将門という者がいた。上総介高望の孫である。執政(忠平)の家に仕えていたが、検非違使の宣旨を望み申した。許されなかったので憤りをなし、東国に下って反逆を起こした。まず伯父の常陸大掾国香を攻めたので、国香は自害した。これより坂東を押しなびかせ、下総国相馬郡に居所を定めて都と名づけ、自ら平親王と称して、官位を勝手に与えた。これによって天下は騒然となった。参議民部卿兼右衛門督藤原忠文朝臣を征東大将軍とし、源経基・藤原仲舒を副将軍として差し向けられた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第六十九代 後朱雀院〜第七十代 後冷泉院第六十九代、第三十七世、後朱雀院。諱は敦良、後一条同母の弟也。丙子年即位、丁丑に改元。天皇賢明にましましけるとぞ。されど其比執柄権をほしきまゝにせられしかば、御政のあときこえず。無念なることにや。長久の比内裏に火ありて、神鏡焼給。猶霊光を現じ給ければその灰をあつめて安置せられき。天下を治給こと九年。三十七歳おましましき。 ○第七十代、後冷泉院。諱は親仁、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉年即位、丙戌改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからずきこえき。陸奥にも貞任・宗任など云し者、国をみだりければ、源頼義に仰て追討せらる。十二年ありてなむしづめ侍ける。此君御子ましまさざりし上、後朱雀の遺詔にて、後三条東宮にゐ給へりしかば、継体はかねてよりさだまりけるにこそ。天下を治給こと二十三年。四十四歳おましましき。
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