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神皇正統記 / 巻三 第五十代 桓武天皇

その年紀もたがはず、又数十代不易の都となりぬる、誠に王気相応の福地たるにや。この天皇大に仏法をあがめ給。延暦二十三年伝教・弘法勅をうけて唐へわたり給。其時すなはち唐朝へ使をつかはさる。大使は参議左大弁兼越前守藤原葛野麿朝臣也。伝教は天台の道邃和尚にあひ、その宗をきはめて同二十四年に大使と共に帰朝せらる。弘法は猶かの国にとゞまりて大同年中に帰給。この御時東夷叛乱しければ、坂上の田村丸を征東大将軍になしてつかはされしに、こと〴〵くたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は武勇人にすぐれたりき。初は近衛の将監になり、少将にうつり、中将に転じ、弘仁の御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。文をもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまに文士にてぞつたはれる。天皇天下を治給こと二十四年。七十歳おまし〳〵き。

書き下し

その年紀もたがはず、又数十代不易の都となりぬる、誠に王気相応の福地たるにや。この天皇大に仏法をあがめ給。延暦二十三年伝教・弘法勅をうけて唐へわたり給。其時すなはち唐朝へ使をつかはさる。大使は参議左大弁兼越前守藤原葛野麿朝臣也。伝教は天台の道邃和尚にあひ、その宗をきはめて同二十四年に大使と共に帰朝せらる。弘法は猶かの国にとゞまりて大同年中に帰給。この御時東夷叛乱しければ、坂上の田村丸を征東大将軍になしてつかはされしに、ことごとくたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は武勇人にすぐれたりき。初は近衛の将監になり、少将にうつり、中将に転じ、弘仁の御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。文をもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまに文士にてぞつたはれる。天皇天下を治給こと二十四年。七十歳おましましき。

現代語訳

その年数も違わず、また数十代にわたって変わらない都となったのは、まことに王者の気にかなった福地だからであろうか。この天皇は大いに仏法を崇められた。延暦二十三年、伝教(最澄)・弘法(空海)が勅を受けて唐へ渡られた。その時すなわち唐の朝廷へ使いを遣わされた。大使は参議左大弁兼越前守の藤原葛野麻呂朝臣である。伝教は天台の道邃和尚に会い、その宗を極めて同二十四年に大使とともに帰国された。弘法はなおかの国にとどまって大同年中にお帰りになった。この御時、東夷が反乱したので、坂上田村丸(田村麻呂)を征東大将軍にして遣わされたところ、ことごとく平らげて帰って来た。この田村丸は武勇が人にすぐれていた。はじめは近衛将監になり、少将に移り、中将に転じ、弘仁の御時であろうか、大将に上り、大納言を兼ねた。文にも通じていたからであろうか、納言の官にも上ったのである。子孫は今も文官の家として伝わっている。天皇が天下を治められたのは二十四年で、七十歳であられた。

解説

聖徳太子の予言どおりの年数で都が移り、数十代にわたって変わらない都となった平安京を、親房は王者の気にかなった福地とたたえる。続けて最澄と空海の入唐、坂上田村麻呂の東北遠征という、桓武朝の二つの大事業を記す。親房は最澄が天台の法を極めて帰ったことと空海が残って学んだことを分けて書き、のちの天台・真言という平安仏教の二本柱の起点をここに置いている。田村麻呂については、武勇にすぐれながら文にも通じて大納言に上り、子孫は文官の家として続いたと記す。武の功で立った人が文の家として残るという点に、親房は目を留めている。武家が力で朝廷を圧していた時代に書かれたこの書では、武勇が朝廷の秩序の中に収まっている姿こそが望ましいものとして描かれる。力を持つ者が秩序の内に身を置くかどうかが、組織の安定を左右する。

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