神皇正統記 / 巻三 第四十三代 元明天皇
第四十三代、元明天皇は天智第四の女、持統異母の妹。御母蘇我嬪。これも山田石川丸の大臣の女也。草壁の太子の妃、文武の御母にまします。丁未年即位。戊申に改元。三年庚戌始て大倭の平城宮に都をさだめらる。古には代ごとに都を改、すなはちそのみかどの御名によび奉りき。持統天皇藤原宮にましゝを文武はじめて改めたまはず。此元明天皇平城にうつりまし〳〵しより、又七代の都になれりき。天下を治給こと七年。禅位ありて太上天皇と申しが、六十一歳おまし〳〵き。
書き下し
第四十三代、元明天皇は天智第四の女、持統異母の妹。御母蘇我嬪。これも山田石川丸の大臣の女也。草壁の太子の妃、文武の御母にまします。丁未年即位。戊申に改元。三年庚戌始て大倭の平城宮に都をさだめらる。古には代ごとに都を改、すなはちそのみかどの御名によび奉りき。持統天皇藤原宮にましゝを文武はじめて改めたまはず。此元明天皇平城にうつりましまししより、又七代の都になれりき。天下を治給こと七年。禅位ありて太上天皇と申しが、六十一歳おましましき。
現代語訳
第四十三代、元明天皇は天智天皇の第四の娘で、持統天皇の異母妹である。母は蘇我嬪(そがのみめ)で、これも山田石川丸大臣の娘である。草壁太子の妃で、文武天皇の母であられる。丁未の年に即位された。戊申に改元した。三年庚戌に、はじめて大和の平城宮に都を定められた。古くは代ごとに都を改め、その帝の御名もその宮の名で呼び申し上げた。持統天皇が藤原宮におられたのを、文武天皇ははじめて改められなかった。この元明天皇が平城に移られてからは、また七代の都となった。天下を治められたのは七年で、位を譲られて太上天皇と申し上げたが、六十一歳であられた。
解説
元明天皇は文武の母で、子の文武が若くして亡くなったあとに即位した。親房がここで記すのは平城京への遷都である。古くは天皇の代ごとに都を移し、天皇をその宮の名で呼ぶのが習わしだったが、文武が持統の藤原宮を改めなかったのが最初の例で、元明の平城京からは七代にわたって都が動かなかった。天皇一代ごとに移ろう宮から、代を超えて続く都へ。この変化は、国家が個人の君主の住まいから、制度として続く体に変わっていく過程でもある。年号が大宝から絶えずに続くようになったことと同じ流れにある。親房はのちに桓武の平安京を「不易の都」と記すが、その前段として、都が定まっていく経緯をここで押さえている。拠点が代替わりのたびに動く組織と、代を超えて同じ場所に根を張る組織とでは、積み上がるものが違ってくる。
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