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神皇正統記 / 巻三 第五十代 桓武天皇

第五十代、第二十八世、桓武天皇は光仁第一の子。御母皇太后高野の新笠、贈太政大臣乙継の女也。光仁即位のはじめ井上の内親王をもて皇后とす。彼所生の皇子沢良の親王、太子に立給き。しかるを百川朝臣、此天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后および太子をすてゝ、つひに皇太子にすゑたてまつりき。その時しばらく不許なりければ、四十日まで殿の前に立て申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・前太子せめられてうせ給にき。怨霊をやすめられんためにや、太子はのちに追号ありて崇道天皇と申。辛酉の年即位、壬戌に改元。はじめは平城にまします。山背の長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の平安城にうつさる。山背の国をもあらためて山城と云ふ。永代にかはるまじくなんはからはせ給ける。昔聖徳太子蜂岡にのぼり給ていまの城をみめぐらして、「四神相応の地也。百七十余年ありて都をうつされて、かはるまじき所なり。」との給けりとぞ申伝たる。

書き下し

第五十代、第二十八世、桓武天皇は光仁第一の子。御母皇太后高野の新笠、贈太政大臣乙継の女也。光仁即位のはじめ井上の内親王をもて皇后とす。彼所生の皇子沢良の親王、太子に立給き。しかるを百川朝臣、此天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后および太子をすてゝ、つひに皇太子にすゑたてまつりき。その時しばらく不許なりければ、四十日まで殿の前に立て申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・前太子せめられてうせ給にき。怨霊をやすめられんためにや、太子はのちに追号ありて崇道天皇と申。辛酉の年即位、壬戌に改元。はじめは平城にまします。山背の長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の平安城にうつさる。山背の国をもあらためて山城と云ふ。永代にかはるまじくなんはからはせ給ける。昔聖徳太子蜂岡にのぼり給ていまの城をみめぐらして、「四神相応の地也。百七十余年ありて都をうつされて、かはるまじき所なり。」との給けりとぞ申伝たる。

現代語訳

第五十代、第二十八世、桓武天皇は光仁天皇の第一の子である。母は皇太后の高野新笠(たかののにいがさ)で、贈太政大臣乙継(おとつぐ)の娘である。光仁天皇は即位の初めに井上内親王を皇后とされた。その皇后のお産みになった皇子の沢良親王が太子に立たれた。ところが百川朝臣は、この天皇に皇位を継がせ申し上げようと志して、またはかりごとをめぐらし、皇后と太子を退けて、ついに(この天皇を)皇太子に据え申し上げた。その時、しばらく許しが出なかったので、四十日まで御殿の前に立って申し上げ続けたという。類のない忠烈の臣であったのであろうか。皇后と前の太子は責められて亡くなられた。怨霊を鎮められるためであろうか、太子はのちに追号があって崇道天皇と申し上げる。辛酉の年に即位し、壬戌に改元された。はじめは平城におられた。山背の長岡に移り、十年ほど都であったが、また今の平安京に移された。山背の国も改めて山城という。永代に変わるまいとお計らいになったのであった。昔、聖徳太子が蜂岡に登られて、今の都の地を見巡らして、「四神相応の地である。百七十年余りたって都が移され、変わることのない所である」とおっしゃったと申し伝えている。

解説

桓武天皇の立太子の経緯を、親房は包み隠さず書く。光仁の皇后井上内親王とその子の皇太子が退けられ、藤原百川のはかりごとで桓武が皇太子に据えられた。百川は四十日も御殿の前に立ち続けて願ったといい、親房はこれを「たぐひなき忠烈の臣」と評する。しかし同時に、皇后と前太子が責められて亡くなり、その怨霊を鎮めるために追号が贈られたことも記している。正統の筋を立てた功と、その陰で退けられた者の無念とが、一つの段に並んでいる。なお、本文で皇后の子とされる沢良親王は、史書では他戸親王であり、崇道天皇の号を追贈されたのは桓武の弟の早良親王である。後半は平安京遷都で、聖徳太子の予言を引いて、変わることのない都と位置づける。大きな決断の陰で失われたものを記録に残しておくことも、書く者の責任である。

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