神皇正統記 / 巻三 第四十六代 孝謙天皇〜第四十七代 淡路廃帝
第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子安積親王世をはやくして後、男子ましまさず。仍この皇女立給き。己丑年即位、改元。平城宮にまします。天下を治給こと十年。大炊の王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給て、平城宮の西宮になむまし〳〵ける。 ○第四十七代、淡路廃帝は一品舎人親王の子、天武の御孫也。御母上総介当麻の老が女也。舎人親王は皇子の中に御身の才もましけるにや、知太政官事と云職をさづけられ、朝務を輔給けり。日本紀もこの親王勅をうけ玉は[つ]てえらび給。後に追号ありて尽敬天皇と申。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給。たゞし、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。戊戌年即位。天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おまし〳〵き。
書き下し
第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子安積親王世をはやくして後、男子ましまさず。仍この皇女立給き。己丑年即位、改元。平城宮にまします。天下を治給こと十年。大炊の王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給て、平城宮の西宮になむましましける。 ○第四十七代、淡路廃帝は一品舎人親王の子、天武の御孫也。御母上総介当麻の老が女也。舎人親王は皇子の中に御身の才もましけるにや、知太政官事と云職をさづけられ、朝務を輔給けり。日本紀もこの親王勅をうけ玉はつてえらび給。後に追号ありて尽敬天皇と申。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給。たゞし、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。戊戌年即位。天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おましましき。
現代語訳
第四十六代、孝謙天皇は聖武天皇の娘である。母は皇后の光明子で、淡海公不比等大臣の娘である。聖武天皇の皇子の安積親王が早く世を去られた後、男子がいらっしゃらなかった。それでこの皇女が立たれたのである。己丑の年に即位し、改元された。平城宮におられた。天下を治められたのは十年で、大炊王を養子として皇太子とした。位を譲って太上天皇と申し上げた。出家なさって、平城宮の西宮におられた。第四十七代、淡路廃帝は一品舎人親王の子で、天武天皇の孫である。母は上総介当麻老(たぎまのおゆ)の娘である。舎人親王は皇子たちの中でもご自身の才がおありだったのであろうか、知太政官事という職を授けられて、朝廷の政務を補佐された。『日本書紀』もこの親王が勅を受けて編纂されたのである。のちに追号があって尽敬天皇と申し上げる。孝謙天皇には御子がおられず、また御兄弟もなかったので、廃帝を御子として位を譲られた。ただし、年号なども改められなかった。女帝の御意のままであったのであろうか。戊戌の年に即位された。天下を治められたのは六年で、事があって淡路国に移された。三十三歳であられた。
解説
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