神皇正統記 / 巻三 第四十五代 聖武天皇
仏法繁昌の感応なりとぞ。天下を治給こと二十五年。天位を御女高野姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給。天皇出家の始也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后光明子もおなじく出家せさせ給。此天皇五十六歳おまし〳〵き。
書き下し
仏法繁昌の感応なりとぞ。天下を治給こと二十五年。天位を御女高野姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給。天皇出家の始也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后光明子もおなじく出家せさせ給。此天皇五十六歳おましましき。
現代語訳
(黄金の献上は)仏法が栄えたことへの感応であるという。天下を治められたのは二十五年で、天皇の位を娘の高野姫皇女に譲って太上天皇と申し上げた。のちに出家なさった。天皇の出家の始めである。昔、天武天皇が東宮の位を退いて髪を下ろされたことがあったが、それは一時のことであった。皇后の光明子も同じく出家なさった。この天皇は五十六歳であられた。
解説
陸奥の黄金を仏法繁昌の感応とし、続いて聖武が娘に位を譲ったのちに出家したことを記す。親房は、これが天皇の出家の始まりであると明言し、天武が東宮を退いて髪を下ろしたのは一時のことにすぎなかったと区別する。先例の有無を確かめ、何が最初の例かを定めようとする姿勢は、この書の全体を貫いている。退位した天皇が出家して法皇となる例は、のちに院政期の白河・鳥羽・後白河へと続き、親房の時代にはすでに見慣れた姿だった。その起点を聖武に置き、光明皇后も同じく出家したことを添えている。仏法を篤く崇めた天皇が、最後には自らその道に入った。位を退くことと、俗世から離れることが結びつくこの形は、日本の君主のあり方に長く影響を与えた。先例を正確に押さえておくことは、後の世が判断するときの拠り所になる。
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