神皇正統記 / 巻三 第四十八代 称徳天皇
第四十八代、称徳天皇は孝謙の重祚也。庚戌年正月一日更に即位、同七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿の大臣の第二の子押勝を幸し給き。大師正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原恵美の姓を給き。天下の政しかしながら委任せられにけり。後に道鏡と云法師又寵幸ありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。帝も淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の極なりけんかし。唐の則天皇后は太宗の女御にて、才人と云ふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、尼に成て、感業と云寺におはしける、高宗み給て長髪せしめて皇后とす。諌申人おほかりしかども用られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、睿宗を立られしを、又しりぞけて、自帝位につき、国を大周とあらたむ。唐の名をうしなはんと思給けるにや。
書き下し
第四十八代、称徳天皇は孝謙の重祚也。庚戌年正月一日更に即位、同七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿の大臣の第二の子押勝を幸し給き。大師正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原恵美の姓を給き。天下の政しかしながら委任せられにけり。後に道鏡と云法師又寵幸ありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。帝も淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の極なりけんかし。唐の則天皇后は太宗の女御にて、才人と云ふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、尼に成て、感業と云寺におはしける、高宗み給て長髪せしめて皇后とす。諌申人おほかりしかども用られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、睿宗を立られしを、又しりぞけて、自帝位につき、国を大周とあらたむ。唐の名をうしなはんと思給けるにや。
現代語訳
第四十八代、称徳天皇は孝謙天皇の重祚である。庚戌の年の正月一日に改めて即位し、同じ月の七日に改元された。太上天皇(孝謙)はひそかに藤原武智麻呂大臣の第二の子の押勝を寵愛なさった。押勝は大師・正一位になった。見ればほほえましいということで、藤原に二字を添えて藤原恵美の姓を賜った。天下の政治はすべて委任されたのであった。のちに道鏡という法師がまた寵愛を受けたので、押勝は怒りを起こし、廃帝をそそのかし申し上げて、上皇の御所を覆そうとしたが、事が露見して誅された。帝も淡路に移された。こうして上皇が重祚された。先に出家なさっていたので、尼のままで位に即かれたのである。常ならぬことの極みであったろう。唐の則天皇后は太宗の女御で、才人という官にあられたが、太宗が崩御されると尼になって感業寺という寺におられたのを、高宗がご覧になって髪を伸ばさせて皇后とされた。いさめ申し上げる人は多かったが聞き入れられなかった。高宗が崩じて中宗が位に即かれたのを退け、睿宗を立てられたが、これもまた退けて、自ら帝位に即き、国号を大周と改めた。唐の名を失わせようとお思いになったのであろうか。
解説
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『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇中宗・睿宗もわが生給しかども、すてゝ諸王とし、みづからの族武氏のともがらをもちて、国を伝へしめむとさへし給き。其時にぞ法師も宦者もあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。
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